アングルボダの戦斧 4
人身売買という商売自体は、それほど珍しいものではない。
どこの都市でも見かけるものだ。
正市民、準市民という言葉があるからには、その裏側にはどちらにも属さない人間がいるということだ。
ただ、それを《転生者》との戦いの最中に、緊急用の通路を使って行うのは、滅多にないことではある。
ルンビーク家はこの戦いを利用して、よほど勢力を伸長したらしい。
(たいした手腕だな)
ルジンは荷台の隅にいる子供たちを見た。怯えた目でこちらを見返してくる。
「――ルジン王!」
アングルボダは怒鳴って、戦斧を構えた。
いまにも飛び掛かりそうな目で、ブライセルを睨んでいる。
「こいつら、人間を売るつもりだ。人間が人間を売るんだぞ」
ブライセルは無言のまま、何かに耐えるように目を伏せていた。
「そんなこと、許していいのか。見ろ! 子供が、荷物みたいにされている!」
「アングルボダ、落ち着け」
「できない! ルジン王は、こいつを許せるのか。わたしの知っているルジン王は――」
「お前の知ってる俺なんて、知らねえよ」
吐き捨てるように言うと、アングルボダは傷ついたような顔をした。
「いま戦っている連中を見ろ、アングルボダ」
森の民は結界柵に張り付き、善戦しているといっていい。
コボルト部隊の援護もある――ただし、損害は出ている。たったいまソードマンに斬り伏せられた森の戦士が一人。
「怒ってる場合じゃない。みんなは――」
その先を、ルジンは言いたくなかった。はっきりと言葉に出すだけの勇気がない。
(みんな、俺の指示で戦わされてる。俺の指示で死んでいくわけだ。こんなことしてる場合じゃない)
ルジンは頭の奥が焦げ付くのを感じた。ひどく不快で、頭痛のようだ。
「ルジン王」
アングルボダは泣きそうな目をしている。ルジンは首を振った。
「いや――それでも、アングルボダ。言いたいことはわかる。だから」
次の瞬間には、ルジンはブライセルの顔面を拳で打っていた。
殴り倒す。あまり手加減するつもりもなかった――拳に、硬質な感触が伝わる。岩でも殴ったような感触だった。
「これは言っておく。サヴラールに生きて帰ったら、バイザックのやつはただじゃ済まさねえ。俺たちがこうなったのもお前らのせいだからな」
ブライセルはやはり何も言わなかった。ルジンと目を合わせない。
ただ、殴られた鼻を抑えている。その周辺が、灰色に――鉄か、石のような色に変色していた。
(なるほど、《魔獣化》歩兵。こいつはガーゴイルだな)
皮膚が破れた。その拳を開いて振りながら、アングルボダを振り返る。
「アングルボダ、荷車に入ってるやつらを逃がせ。外に出したら、荷車はぜんぶ横倒しにしろ」
「ルジン王」
アングルボダは興奮したように、戦斧を掲げた。救われたような笑顔で、雄叫びのような声をあげる。
「ルジン王! やっぱりルジン王は、何も違わないんだ。私の知っているルジン王だ!」
「知るか」
今度は本当に、心の底からそう言った。
「いいから急げ。荷車を使って道を塞ぐぞ」
「わかった」
アングルボダが勢いよく飛び出していく。
ルジンはそれを横目に、外套の内側から呪巫筒を引っ張り出す。数は残り三つ。うまくやらねばならない。
「ラベルト! アルノフ、オズリュー!」
ルジンは声を張り上げ、三人の若い兵士を呼んだ。
「呪巫筒、残り全部使うぞ。燃やせ。アングルボダが避難させたところから、通路を閉鎖してくれ」
アングルボダがその怪力で引きずり倒した荷車へ、呪符筒を投げる。
爆音が響き、炎が荷車を包んで燃える。どこか不吉な緑の炎が雪原を照らしていく。
「でも、ルジンさん!」
こんなときでも、アルノフはどこか生意気だった。
「前線がもう持ちませんよ! 下がったら押し込まれます!」
どうやら馬がやられたらしく、いまは徒歩で槍を繰り出している。オズリューも同じで、ラベルトだけが馬を駆り、ほとんど曲芸のような騎射を繰り返していた。
「前線は気にするな。いいからやれ!」
ルジンは駆け出し、アルノフに呪巫筒を押し付け、蹴飛ばした。
「でも」
「次言ったら殴る」
ルジンはもう振り返らない。結界柵の一角をいままさに突破しつつあった、ひときわ大きなソードマンの個体に飛び掛かる。
森の戦士たちが、左右から槍を突き出している――ソードマンはそれを振り払い、踏み込みすぎた右の戦士を叩き斬る。
(遅かったか)
ルジンは舌打ちをしながらも、防御の空いたソードマンの腹部にクグリ鉈を打ち込む。
甲殻の隙間。腰の部分を砕く。
体勢が崩れて、それでもソードマンはルジンに向かって刃を振り下ろそうとしていた。
短い一呼吸の間。
(首を打つ軌道だな。だが)
ルジンは上体を振って、クグリ鉈に勢いをつける――次の一撃を準備する。
防御する必要がなかったからだ。ルジンの眼は、空から飛来するメリュジーヌの姿を見ている。
「陛下、申し訳ありません。遅れました」
メリュジーヌの曲刀がソードマンの腕を付け根の部分で引き裂き、同時にルジンの鉈は首筋を捉えた。
大きな体が傾いて、そのまま倒れる。雪が散る。
「グリフォンたちに合わせて飛ぶのは、少々気苦労が多いですね」
メリュジーヌはルジンの隣に舞い降り、金色の髪の毛を指でかきあげ、整えた。グリフォンたちも次々と前線の《転生者》たちに襲い掛かっている。
「次からはあの連中の指揮ではなく、陛下のお傍に侍りたいものです」
「次があればな」
ルジンは決意している。
こんな風に、集団を指揮するなんてもうごめんだ。傭兵としてまとめ役を務めるとしても、せいぜい五、六人くらいが自分の限界だろう――そういう気がした。
「メリュジーヌ、後退を援護してくれ」
ルジンは背後で次々と荷車が燃え上がるのを見た。
「通路まで下がればどうにかなるかもしれない」
「御身の命令とあらば、この身に代えても」
メリュジーヌは滑らかに一礼した。
「大げさなんだよ、お前たちは。いちいち――」
ルジンが思わず笑ってしまったとき、ふいに前方が翳った。
そんな気配があった。圧力とでもいうべき気配だった。
「来たぞ!」
森の戦士たちが叫んでいる。
「パラディンだ! ――弓なんて効かない、下がれ!」
ソードマンたちの、倍くらいの巨体だった。
両腕が極端に肥大化した、昆虫と熊の中間のような異形。白く輝くような甲殻に覆われている。
その異様に目立つ見た目は、まさしく、攻撃を自分に引き付けるためにある。
パラディンはその両腕で、結界柵を粉々に砕いていた。
それに巻き込まれた森の戦士たちも、何人かが蹴散らされている。動きは鈍重だが、力は圧倒的だ。弓矢も槍もろくな損害を与えられない。
「くそ。もう来たのかよ」
ルジンは悪態をつくしかない。
パラディンは足が遅い――希望的観測では、あと数十秒は遅れて前線に到達してくれると思っていた。
「悪い、メリュジーヌ。予定変更だ。俺とお前は死ぬかもしれないけど」
「それは」
どういうわけか、メリュジーヌは体を少し震わせ、嬉しそうに微笑した。
「この上ない名誉ですが、そうはいきません。必ず御身をお守りいたします」
本当に大げさなことを言いやがる、と、ルジンは思った。
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