グリフォンの小枝 1

 目覚めると、柔らかい毛皮の中にいた。

 それに日を浴びた土の匂いもする。

 ルジンは束の間、混乱して目を瞬かせた。


(どこだ、ここは)

 ぎこちなく起き上がる。

 寝ていた場所は、どうやら小さなテントのようだった。

 柔らかい毛皮はルベラである。枕のようにしていたらしい――彼女はルジンが目覚めたことに気づき、つまらなさそうに鼻を鳴らした。


「悪いな、ルベラ」

 ルジンは呟いて、頭を振った。眠気はほとんど去っていた。

 外を見れば、分厚い布地越しでも太陽の明るさを感じる。

「いったいいつまで寝てたんだ?」

 ルベラに尋ねても、当然答えが返ってくるはずもない。


 記憶を辿ってみようとする――そう。戦いがあった。サヴラールの西の丘で、ルジンたちは陣地が崩壊するのを見た。

 そこからコボルトたちとともに逃げて、森に到達し、そして――

「アングルボダか」

 そう名乗る、とんでもなく大柄な女に助けられた。

 そのまま森の野営地に案内されて、ほとんど気を失うようにして眠り込んだと思う。正直なところ、最後の数刻は記憶にない。


 アングルボダが率いていたのは、森の民の戦士たちだった。

 彼らは兵士とは呼ばれない。

 森の民は森林都市カズィアからの庇護を得られない代わり、市への兵役や納税の義務もない。ただ、自分たちの氏族のために戦う。


(あのとき、丘の陣地には、先行していた百人が来ていたんだな)

 残りの手勢は非戦闘員を守りながら、野営地を一つずつ築いて、徐々にサヴラールへと向かっていたということだ。

 時間はかかるが、身を守るための陣地を作りながら移動するのは悪くない。

 ましてや、今回は丘を攻略するために戦力が集中していた。


(しかし、腹が減ったな)

 考えることに飽きて、ルジンはテントを抜け出ることにする。

 眼が眩むほど晴れている。森の民の野営地の様子が、良く見えた。


 木々が伐採されている空間に、いくつものテントがひしめている。

 こういう開けた場所を、いくつも氏族の間で管理しているのだろう。

 雪を掘り、周囲に簡素な柵をめぐらし、そこに水をかけて回っている子供たちの姿がある。


禍水ヴォジャだ)

 ルジンはその黒ずんだ水を知っていた。

 水に呪詛を用いることで汚染したものである。《転生者》たちはこれを嫌い、触れると痛みのようなものを感じるらしい。長く浸かれば衰弱もする。

 柵にたっぷりと含ませておけば、白兵戦になったときに有利となる。

 城塞型のダンジョンにおいては、濠に流して使われることもある。


 とはいえ水を一度呪詛で汚染してしまうと、人間の生活用水には転用できない。

 よって水の豊富な場所でなければあまり使われることはないが、雪の多い地域で、冬季ならば違う。

 鉄よりも容易に生産できる、重要な武器になる。


 しかし、それ以上にルジンの目を引いたものがある。野営地の上空を飛ぶいくつかの影だった。

(見慣れない生き物だな)

 猫のような毛に覆われた胴体に、鷲に似た翼が生えている。


 さほど大きくはない――と思ったが、そのうち一羽が舞い降りて木の枝にとまると、大きく撓むのがわかった。人間の子供くらいはある。

 柵に禍水ヴォジャをかけていた子供が、口笛を吹きながらそちらへ駆け寄った。

 なにか、餌のようなものを片手に握っている。


 一方で、ルベラはその生き物を睨み、唸り声をあげていた。警戒しているのがわかる。

(敵だと思ってるな?)

 ルジンは少し笑ってしまった。

 その首筋を撫でてやったが、まだ少し不満そうにルジンを見つめてくる。


「落ち着け。たぶん、ここの集落で飼われてるやつだ。あれを見ろ、獲物をとってきたみたいで――」

「ルジン王!」

 ルベラを相手に喋っていたら、不意に背後から声をかけられた。

 続いて、衝撃。

 危うく転びそうになって、踏みとどまる。いや。両肩を掴んで止められた。


「ルジン王! お目覚めか!」

 そのまま肩を掴んで、ぐるぐると回された。

(アングルボダ。たしか、そういう名前だ)

 ルジンはかろうじてその顔を見た。

 大柄で、火のように赤い髪の女だ。浮かべている笑顔は、ひどく無邪気に見えた。まるで子供のようだった。


「ルジン王、お腹はすいていないか? 喉は渇いていないか。食べるものはあるぞ。アングルボダが作れる。酒も、少しならある!」

 アングルボダは勢いよくまくしたてた。ルジンが喋る暇もない。


「おい、待て」

「それとも、もう少し眠るか? ルジン王がよく眠れるように、アングルボダは花を採ってきた。いい匂いがするものだ」

「待ってくれ……」

「敵のことは心配するな、アングルボダがいる。すべて蹴散らす」


 アングルボダは、一切待つ気がないらしい。

(なんなんだ、こいつは)

 ルジンが困惑していると、助けは空からやって来た。メリュジーヌが、翼を震わせて舞い降りてくる。


「アングルボダ。やめなさい、陛下が困っているのがわからない?」

「メリュジーヌか」

 アングルボダは迷惑そうな顔をした。

「いま、ルジン王はわたしがお世話している。メリュジーヌは必要ない。食べるものもアングルボダが作る」


「あなたに料理を作らせるつもりはないわ。まず、その辺の雑草とかを鍋に入れるのはやめてくれない?」

「雑草じゃない、あれは薬草。体にいい」

 アングルボダは憤りを感じたようだった。メリュジーヌを睨みつける。

「ルジン王には栄養が必要だ。疲れてる」

「だとしても、あんな苦い草、陛下のお召し上がりになるべきものではないわ。偉大なる陛下の舌に対する反逆というべきね。あなたやゴルゴーンの作る食事は雑すぎる。泥でも食べて育ったの?」


「メリュジーヌ、偉そうだ」

 流れるようにまくしたてるメリュジーヌに対し、アングルボダは攻撃的な気配を見せた。

「陛下のついでに、助けてやったのに」

「あれは――」

「そこだ。そこのところは、俺が聞きたい」


 メリュジーヌが一瞬だけ気圧されたときを見計らい、ルジンは口を挟むことにした。

 そうでない限り、延々と続きそうだったからだ。

「アングルボダ。ここの連中は――」

 ルジンは周囲を見た。注目が集まっている。


 森の民の子供たちは、ルジンを丸い目で見ている。

 老人たちの中には跪ている者もいる。戦士たちはルジンを指差し、何か興奮気味にしゃべっていた。

 何か、異様な雰囲気の中にいる気がする。

 コボルトたちと、その世話係として残った若い三人の兵士たちだけが、混乱しているようだった。


「なんなんだ。なんで俺を王様扱いするんだよ」

「ルジン王は、ルジン王だから」

 アングルボダは、どういうわけか恥ずかしそうにうつむいた。

「わたしがみんなに教えてあげた。苦手だけど、がんばって喋った。偉いか?」

「いや――偉いというか」


「そうだな。本当は、一万くらい集めるつもりだった。ティアマトはそうしろと言った。でも、森の民、数が少ない……これが精いっぱいだった……。アングルボダは恥ずかしい。ルジン王の、未来の花嫁なのに」

「それも」

 ルジンは頭をかきむしった。

 このところ、わけのわからないことばかり起きる。


「それも、どういうことなんだよ。花嫁って、お前……メリュジーヌは」

 ルジンは翼のある少女を振り返る。

 彼女は憮然とした表情で、アングルボダを睨んでいた。


「お前、俺の伴侶だとか言ってなかったか?」

「はい、陛下」

「アングルボダの言ってるのは?」

「あまり気にしないでください。彼女にとっては、そうなのでしょう」

「答えになってねえよ。それはなんだ、俺が二人も嫁をとったってことなのか? 未来の俺が。本気か?」


「いえ……なんというか……申し上げにくいことですし、あまり申し上げたくはないのですが」

 メリュジーヌは気まずいような顔で、ため息をついた。

「未来には、色々な形があるのです。分岐した道、といってもいいかもしれません。ベクト……ベクト師は、そう言っておりました」


「もっと、俺にわかりやすいように頼む」

「陛下のご判断で、未来は様々に分岐しております。その中には、アングルボダを花嫁とした未来もあったのでしょう。おそらくは。一億分の一くらいの確率では。彼女はその未来から、喚起――あ、いえ。転生してきたということです」

「頭が痛くなってきた」

「もちろん、一億のうち九千万ほどは、この私と結ばれていたはずです」

「頭が痛くなってきた」


 ルジンは万面の笑みを浮かべるアングルボダと、気絶しそうなくらい真面目な顔をしたメリュジーヌを交互に見る。

 やはり、頭痛がする。

 思い浮かぶのはベクトの顔だけだ。


(ベクト)

 会ったら一度、殴り倒すべきだろう。

(決めたぞ)

 ルジンは一つ、目標を定めた――あの男を殴りつけるまでは、死にたくない。

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