メリュジーヌの翼 5
森の入り口までたどり着くことは、できる。
問題はそこからだろう。
(追いつかれる)
そう確信しながらも、ルジンは速度を落とさず駆けるしかなかった。
(俺の楽観的な計画では、さっきの連中を軽くあしらってから、余裕をもって逃げ込むつもりだった)
木立に姿を隠しながら、追手を混乱させる。引き離して逃げる。
それをするためには、せめてもう少し距離が必要だった。
(次の追手は、ナイトが一体。ソードマンとバンディットの混成。あわせて二十ほど)
とても現実的な数ではない。
さきほどのように、混乱させて一気に突破するなどということは不可能だ。背後につかれている。
(いや、まだだ。時間を稼ぐ。俺の得意分野だ、そのために戦ってきた)
この期に及んでもなお、ルジンには現実感が欠けている。
ルジンが思う自分のささやかな長所は、地に足がついていないということだ。あるいは呑気すぎるとか、間抜けすぎるとか、子供の頃からよく言われてきた。
おかげで現実をうっかり直視などして、絶望せずに済んでいる。
(森に入ったら、木立を使って防戦する。攪乱して離れる。それを繰り返そう)
ルジンは前方を見た。
アルノフたち三騎が先行し、コボルトたちが続き、最後にルジンとメリュジーヌが追いかける。
傍らのメリュジーヌは、露骨に遅れ始めていた。
翼の動きが鈍りつつある。
「おい」
ルジンは声をかけようとした――そのとき、彼女の足がもつれた。
転びそうになるところを、どうにか支える。
「メリュジーヌ、真面目に歩け」
「はい、陛下」
隠しきれない疲労が滲んでいる。翼が羽ばたこうとするが、もはや痙攣に近い。
「歩けます。すぐ後ろを続きます、どうか先をお急ぎください」
「無理を言うなよ」
ルジンは呆れた。
有無を言わさず、メリュジーヌを担ぎ上げる。走る。ルベラが心配そうに振り返る、その顔に片手を振ってやる。
「陛下、どうか、私にお構いなく――足手まといにはなりたくありません。せめて囮となって――」
「なんでお前がそこまでするんだよ」
ルジンは苛立ちを隠さなかった。
「俺はそんなたいしたやつじゃない。お前は何を知ってる?」
「言えません。それは、陛下であろうと」
「腹が立ってきたんだ。お前ら……俺の言うことなんて本当はちっとも聞きゃしねえくせに、どいつもこいつも」
そうだ、とルジンは思う。
怒るくらいでちょうどいい。眠気や疲労や足の痛みを忘れられる。
「いいから言え。さもないと、お前をアルノフかオズリューに預ける」
「陛下、それは」
「その場合、俺がここでやつらを足止めすることになるな」
この脅迫は、予想以上の効果を発揮した。メリュジーヌが体を震わせるのがわかったからだ。
「さっさと言えよ」
ルジンは鋭く命じた。
「メリュジーヌ、何を知ってる? お前は何者なんだよ。未来って言ったな。未来では、お前は俺のなんなんだ?」
「私は」
意を決したように、メリュジーヌはかすれた声で言った。
「陛下の伴侶です」
「伴侶」
ルジンはその単語の意味を、一瞬だけ考えねばならなかった。それほど突拍子もなく感じた。
「伴侶?」
「はい」
メリュジーヌは不意に顔をそむけた。
「陛下の、妻です。常にお傍に侍り、御身をお守りする……そのはずでした」
メリュジーヌの言葉がうわごとに近くなっている、とルジンは思った。
余計に現実味が薄くなってきた。
「……ですが、最後の最後で、間に合いませんでした」
「最後って、なんだよ」
「決戦を……ブレイヴどもと、決戦をするために。……ルジン・サスヴァです。王都ルジン・サスヴァ」
(なんだ、それは。ひどい名前だな)
次々に聞いたことのない、あるいは予想外の単語が出てくる。
(もういい、考えるのは疲れる。俺の仕事じゃない)
ルジンは半ば聞き流すことにした。喋っている間は、メリュジーヌも意識を失ったりしないだろう。
木立まで、あと少し。十五歩、いや十歩。
ルベラがこちらを振り返って吠えた。すぐ背後に《転生者》たちがいる。
「いまからもう少し先のことですが、あのとき……陛下を死地に陥れたのは、私です。私が、陛下を殺しました」
「なんでだ?」
相槌を打つつもりで、尋ねていた。
何か冗談のような口を挟まなければやっていられない、居心地の悪さがあった。
「魔王陛下ってやつは、俺とよく似た名前だ。だったらやっぱり嫁に殺されるほど間が抜けてるのか」
「違います。私はあのとき、陛下のお考えを信じることができませんでした。……分断されて……私が御身の下へ駆けつけたときには、すでに」
つまらないことを聞いている。
そんな気がする。
いま聞きたくはない、それどころか知りたくもないようなことだ。
「だから私は、もう一度。生まれ変わることができるなら、と」
うわごとに違いない。ルジンはそう決めつけて、跳んだ。
森の中に飛び込む。
「全員、盾を出せ! 並べろ!」
ルジンは怒鳴った。彼自身もまた、もういないダオの木盾を背負って来ていた。穴が開いているが、ないよりましだ。
それを雪面に突き立てる。
体の半分を隠せるくらいの盾だ。木立の隙間に並べると、ちょっとした遮蔽物になる。アルノフも、オズリューも、ラベルトもそれに倣った。
(人間が持つ、《転生者》に対する強みは、構造物の強さ)
ルジンは彼の師の言葉を思い出す。
ベクトとともに厄介になった傭兵団の長が言っていた。
森の遮蔽を活かしても、このままでは逃げ切れないだろう。背を向けてただ逃げる個人がどれほど死にやすいか、そのくらいは知っている。
また、《転生者》の知覚能力と、そのしつこさも。
せめて混乱はさせねばならない。
「一撃だけ凌いで、勢いを削ぐぞ。そしたら逃げる」
言ってから、ルジンは最後に笑った。引きつった顔になったような気がした。
「今度は言うこと聞けよ」
「はい」
という言葉を返したのは、アルノフだけだった。
(本当にわかってるんだろうな)
とは思ったが、口には出さない。無意味だからだ。
オズリューは喉を動かして、たぶん胃液を飲み込んだのだろうし、ラベルトは無言で弓を構えた。
ルベラたちコボルトは、低い姿勢で牙を剥きだす。
(まったく、絶望的だな。皆殺しだけは避けたいが)
ルジンは最後の呪巫筒を握った。
皆殺しは避ける――にしても、せいぜい一人か一頭が生き延びる程度だろう。
(一人でも多い方がいいに決まってる。たぶんな)
ルジンは接近してくる《転生者》たちを捉える。
ワーウルフの視力が、その群れの動きを鮮明に認識する。
鉤爪で雪を引っ掻くように、バンディットが飛び込んでくる。ソードマンたちが刃を振って枝を払う。
そしてナイトが槍を振り上げる――その上半身が、唐突に吹き飛んだ。
ばぐん、と、異様な衝撃音が響く。
(なんだ)
ルジンは目を瞬かせた。
かろうじて見えたのは、黒く巨大な何かが木々の間を走ったということだ。それはナイトの上半身をえぐり取り、ついでに傍らの樹木を幹ごと破砕している。
ゆっくりと木が倒れていく。
(……斧か?)
少し遅れて、それを認識する。
また、ルジンたちの周囲で異様な声があがっていた。
何人もの人があげるけたたましい叫び。犬の遠吠え――あるいは奇怪な鳥の類だろうか。木々の上から、何人もの人間が降ってくる。
「ルジン!」
誰かに名前を呼ばれた。地面を震わすような声だったと思う。
「ルジン王が、来た! 来たぞ!」
獣の毛皮で覆った具足、樹木を削ったような槍。
ルジンはその姿に見覚えがある。森の民たちだった。
「……嘘でしょう」
メリュジーヌがかすれた声をあげていた。
ルジンたちが呆気にとられている間に、《転生者》たちの群れは瞬く間に数を減らす。
「アングルボダ。なんでここに」
メリュジーヌはひどく疲れた目で、その中心にいる人物を見ていた。
ルジンにも誰を見ているのかよくわかった。
それは赤黒い甲冑に身を包んだ、大柄な女だった。
動くたび、火のように赤い髪の毛が跳ねている。
あのゴルゴーンよりも、さらに頭二つ分は高い。そう長身ではないルジンが見上げるほどで、その手には長柄の戦斧と、盾とを持っていた。
「ルジン王だ。本物だ。本当に、また会えた」
甲冑の女はルジンを見て笑った。
笑いながら、彼女は戦斧を振るう。足元を這って逃げようとしたバンディットを叩き割った。
「ベクトの嘘じゃなかった――ルジン王、どうだ? わたしたちの戦いを見たか?」
「ああ。……いや」
どうにか、ルジンはそれだけを口にすることができた。つまらない返事だと思った。
続いた言葉は、もっとつまらなかった。
「助けてもらっておいてなんだが、お前は誰なんだ?」
「アングルボダ」
女は嬉しそうに笑いながら、赤い髪を指で捻った。
「アングルボダは、ルジン王の花嫁だ。かつても、いまも、ずっと」
ルジンはさらに頭痛を感じた。
この頭痛は眠気に近い。ワーウルフとしての極端な活動と、慣れない頭を使う羽目になったせいだ。
(これはつまり)
ルジンは最後に残った思考をかき集め、アングルボダとメリュジーヌの発言を解釈しようとした。無理だった。
(駄目だ、俺には無理だ)
混乱している。意識が遠のきそうだ。
メリュジーヌを見た――彼女は気まずそうに視線をそらした。
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