メリュジーヌの翼 3

 本陣への帰還は不可能だと、判断せざるを得なかった。

 空を舞う《転生者》――ブレイヴ個体の放つ稲妻が、丘の上の陣地を抉っている。


 兵舎が砕け、炎上する。煙があがる。

 結界防御を施した陣地といえども、ブレイヴ個体の攻撃に晒されてしまえば、一撃か二撃くらいしか持たない。


 地上には、『クリシュナ』が立ち尽くしている。

 動く必要などないのだろう。丘の陣地を潰した「次」に備えているのか。

 異形の《転生者》たちはそれに先駆け、勢いを増し、攻勢を再開していた。もはや防御の結界柵は、正面方向が圧壊させられている。

 陣営は撤退を始めているだろう。そのはずだ。


(ゴルゴーンのやつは無事かな)

 ルジンはそう思い、思った自分に嫌気が差した。

(馬鹿か、俺は)

 こんなときに他人の心配をするのは、現実逃避のようなものだ。こちらも両陣営の狭間にいる。


「――どうしましょう」

 神経質そうな若い兵士、オズリューが周りを窺うように見た。不安そうな顔。アルノフも、ダオも似たようなものだ。

 ラベルトはほとんど表情が変わらないが、強く手綱を握りしめている。


「私たちは、どこに向かえばいいんですか?」

(知るか)

 と、ルジンは怒りをぶちまけたい気分にかられた。

 オズリューもルジンに対してだけ言ったわけではなかっただろう。ただ、誰かに方針を示してもらいたかっただけだ。

 それはルジンも同じだ。


(他に誰か、指揮ができるやつはいないか。そいつに任せたい)

 ルジンは救いを求めて、メリュジーヌを振り返った。

 彼女はどこか冷たいような顔をこわばらせ、ルジンを見ていた。


「陛下。私が持つ《祝福》の力は、偵察兵としての力です」

 メリュジーヌは、またささやくように言った。

「陛下の耳目となること、陛下の手足となりあらゆる場所に駆けつけること。攪乱と奇襲です。直接の戦闘では、あの手のブレイヴ個体には対抗できません」


(戦うつもりはない)

 そんなことをまず発想するとは。

 見た目からは想像しづらいが、彼女は恐ろしく好戦的なのかもしれない。とにかく、作戦立案という点で彼女に頼るのは無理そうだとわかった。


「くそっ」

 命令を出してくれる相手がいない。

 ルジンは呪うような気持ちで足を速めた。ルベラがぴたりとルジンの背後を追ってきて、慰めるように鼻を鳴らした。

 彼女が喋れたら、と、ルジンは意味もないことを思った。

 群れの長として、指示を出してもらえたものを。


(考えないと)

 そんなことには向いていない。向いていないはずだ。言い聞かせながら考えるしかない。

 かつてベクトが言っていた。

 まずは問題を考えろ――だった。自分は何に困っているのか?


(問題はなんだ。わかってる。どこへ向かうべきか)

 まず、このまま雪原をうろつくわけにはいかない。《転生者》が進軍を続けている――いずれこちらも捕まる。

 次に、丘の陣地へ戻ることもできない。もう敗走が始まっている。

 ならば、森だろうか? 森からは《転生者》たちが湧いてきている。死にに行くようなものではないか。


(いや、違う。そうじゃない)

 森、と考えたとき、ルジンは引っかかるものを感じた。

 森の民。

 彼らはどこから来たのだろう。《転生者》の軍勢を突破してきたのか。それも違う。子供や年老いた者、傷ついた者も遅れて来ると言っていた。


 安全な道が、あるのだろうか。《転生者》に制圧されていない道が。

 彼ら森の民はどちらから来ただろう?

 ルジンは必死で記憶を探った。

 あのとき、森の民たちの独特の匂いを感じた方向。

(南だ)

 断言できる。丘の南側から、彼らの一団はやってきた。カズィア森林地帯は、丘を取り巻くように広がっている――その南側。


「このまま前進する」

 思いついたとき、ルジンは言っていた。視界の先にある森林を見据える。

「カズィア森林の南へ入る。そっちには《転生者》がいない」

「承知しました、陛下」

 即答したのはメリュジーヌだけで、特にアルノフは不思議そうな顔をした。


「なんでわかるんです?」

「勘だ」

 説明するのが面倒になって、ルジンはまた適当なことを言ってしまった。アルノフが少し不満そうな顔をした。

「勘って、ルジンさん、《転生者》は森から――」


「陛下がそう仰っている。黙って従いなさい」

 メリュジーヌは有無を言わさぬ口調で告げた。

「無駄口を叩かないで、後に続いて。それ以上無駄な質問をして、陛下の足手まといになるようなら、処罰するしかなくなるわ」


 四人の兵士は口を半開きにした。驚いた、というより呆気にとられたという様子だ。

(メリュジーヌ。こいつも対人関係が決定的にまずいやつだな)

 ルジンは泣きたいような気分になった。


「でも」

 と、アルノフは少し反抗的な態度を示した。

「森の中に逃げ込んで、ぼくらは助かるんですか」

「ここで立ち止まって死にたいなら、そうすればいいんじゃない」

 メリュジーヌはこの若い兵士の命に、微塵の興味も持っていないようだった。

「せめて陛下のお役に立ってから死んでほしいけど」


「悪いが、喋ってる暇はないんだよ」

 ルジンは仕方なく口を挟むことにした。

「足を動かせ。死にたくないんだ、俺は。フェルガーから酒を奢ってもらう予定がある」

「陛下のお言葉を聞いた? 口を縫い付けられる前に、しっかり歩きなさい。あなたみたいに生意気な雑兵でも、いまは貴重な陛下の――」

「お前もだ、メリュジーヌ」

「う」

 メリュジーヌは泣きそうな顔をした。


 だが、いまは彼女の力がどうしても必要だ。働いてもらわねば困る。

 側面から《転生者》の群れが近づいてきている。

 ナイトを中心に、二十ほど――ソードマンではなく、バンディットのみを連れているので足が速い。もうすぐ捕まる。


 それを凌いでも、あと一回か二回は突破のために戦わねばならないだろう。

 森までの距離が遠い。

(何か希望的なことを考えよう)

 コボルトたちの体力は、徐々に回復しているはずだ。それと馬に乗った兵士が四人。バンディットの二、三体くらいなら相手取れるか。

 あとはメリュジーヌと――自分だけだ。


「畜生」

 ルジンは少しでも現実から逃れようと、空を見上げた。


 稲妻の迸る青空――そこを、地上から一条の光が貫くのが見えた。

 ぎぃっ、と、空が軋んだような異音。

「あれは、ゴルゴーン様の」

 長身のダオがぼんやりと呟いた。なんとなく、眠そうな顔だった。

「『瞳』だ」


 間違いないだろう。

 ゴルゴーンの放った閃光は鞭のようにしなり、飛行するブレイヴ個体の影を狙う。


(やれるのか?)

 ルジンは駆けながらもそれを凝視する。

 空の影は避けようと速度をあげたようだが、光の鞭はそれを逃さない。蛇のように蠢き、襲い掛かり、かすめた。

 そのまま飲み込む――と思ったときに、明滅して消える。


(限界だったか。でも、あの翼の片方を焼いた)

 ルジンの眼はその一瞬だけを捉えた。

 空を舞うブレイヴ個体は、明らかに均衡を崩していた。落下しつつある。少なくとも、もう稲妻は放っていない。


 わかったことが二つ。

 ゴルゴーンの『瞳』は、ブレイヴ個体が相手でも通じる強力な兵器だ。

 そして、片方の《転生者》を落としたということは、『クリシュナ』自身が出てくるしかない。

 どことなく物憂げに、黒い人影が歩みを再開している。

 速やかに陣地を潰すため、ブレイヴ個体としての力を用いるはずだ。


(あっちを気にしても仕方がない。楽観視でもするか)

 ルジンは強引に希望をでっちあげる。そうでなければやっていられない。

 サヴラール市に戻る意味が出てきた。

 ここを凌げば、もう少し生き延びることができるかもしれない。

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