メリュジーヌの翼 2

 雪が激しい。

 視界が悪い――それは逃げるルジンたちにとって、幸いなことか、どうか。


(どっちでもいい)

 ルジンは面倒になって、割り切ることにした。

 いまはただ前へ足を出すだけでいい。疾駆はできない。コボルトたちの持久力が限界だった。

 姿勢を低く、駆け足に進む。

 こちらへ向かってきた《転生者》だけを倒す。それしかない。


(かなり数が減ったな)

 死んだ、ということを、ルジンはあえて意識しないことにした。

 背後に続くコボルトは十一頭。馬に乗った人間が四人。つい先ほど、残った彼らの名前を聞いてしまった。

 一番若い兵士がアルノフ。背の高いのがダオ。神経質そうなオズリューと、無口なラベルト――死んだのはメルガ。


(聞かなきゃよかったな。勢いで聞いちまった)

 無駄な感情移入をしてしまうかもしれない。というか、実際にそうなりつつある。

(馬鹿か、俺は)

 余計なことを考えている。

 いまはただ歩くべきだ、と思う。帰ってやるべきことがある。


(そう、フェルガー。あいつの酒瓶の残りをいただく)

 そのはずだった。この西の丘の陣地に持ち込んできていた酒がある。最初の夜にラベルだけ見た。西部ガストゥラ地方ターランドの最後の一本。

 それを奢ってもらうまでは、死にたくない。


「陛下」

 と、メリュジーヌがささやいた。

 彼女はルジンの隣を駆けている。小柄ではあるが、数歩ごとに翼が動く。それで距離を稼いでいるのだろう。

 ただ、翼の動きがどこか弱々しく思えた。

 この吹雪の中でルジンを探し、飛び回ったことは、しかるべき負荷を彼女の翼に与えているようだった。


「陛下。恐れながら、具申いたします」

「なんだよ。いま、忙しいんだ」

「陛下の御身だけならば、私が抱えて飛ぶことができます」

「そうか」


 声を低めて言ったメリュジーヌに、ルジンは疲れたような返事しかできなかった。

「かなり天気が荒れてる。お前ひとりならどうだ? 本陣に俺たちのことを――」

「その間に、陛下は包囲されます。馬鹿なことは言わないでください。あ、いえ……不敬でした」

 謝りながら、メリュジーヌは真剣な顔だった。しかし、何かを恐れている。


「ご決断を、どうか。御身さえご無事なら、私は」

「メリュジーヌ。お前、俺の未来を知ってるんだろう。俺はこのあと、どうなる? ここで逃げたら?」

「それは」

 彼女は黙った。顔色が雪のように白い。


「……申し上げられません。申し上げれば、未来が変わってしまうかもしれませんし、なにより……私もゴルゴーンも、すべてを知っているわけではないのです」

「どういうことだか、はっきり言え。腹が立ってきたぞ」

「申し訳ありません」


 メリュジーヌは身をすくめた。

 何よりも、ルジンの言葉に怯えているのがわかった。

「未来についての記憶を、すべて持ち合わせていないのです。陛下のお顔を、覚えていなかったように――欠けている部分の方が多く」


 あまり有効活用できるものではないらしい、と、ルジンは思った。

「陛下。どうかお許しを」

 そう言ったメリュジーヌは、やはり怯えている。ルジンはせめて緊張を和らげるために笑った。

「あとでちゃんと聞くから教えろよ。生き延びたら、知ってることをぜんぶ言え」

「では、陛下」

 メリュジーヌはルジンの腕を掴んだ。


「お願いいたします。どうか、私にお掴まりください。御身一人だけなら、本陣までお守りできます」

「無理だ」

 ルジンは雪の中を、ただ前に進む。

「それができたら、俺もたいしたもんだ」

 ここにいる皆を置いて、一人だけ逃げる。

 そんな勇気はない。それができるほどの勇者ではない。自分が嫌になる、とルジンは思った。


「しかし、陛下」

 メリュジーヌはルジンの腕を強く引こうとした。あるいは強引にでも飛ぶつもりだったのだろうか。


 が、その直後に跳び離れていた。

 ルベラだ。赤毛のコボルトが、彼女の手首を狙って跳ねた。本当に食い千切ろうとしたのかもしれない。

 牙を剥き、メリュジーヌに対して唸っている。


「陛下。この犬は」

 メリュジーヌが眉をひそめる。その手が曲刀の柄にかかっていた。

「……ルベラです」

 不意に、背後から声が聞こえた。ぼそりとした声で、若い兵士が声をあげていた。

 ダオ、という名の青年だ。彼は他の者よりも、一回りほど背が高い。


「……気性が荒いんです、メリュジーヌ様。群れの者に危害が加えられようとすると、とても怒ります」

「私が、陛下に危害を加える?」

 メリュジーヌは、ルベラとダオを交互に睨んだ。

「そんなはず、あるわけないでしょう」


(冗談を言っている)

 ダオという男は、いかつい顔に似合わないことを言う――緊張を弛緩させようとしたのかもしれない。妙な滑稽さがあった。

 ルジンも何か笑えるような言葉を探して、彼らを振り返る。

 そして気づいた。


 辺りが妙に静かだ。

 そういえば、《転生者》とも遭遇していない。

 いつの間にか吹雪が薄れている――いや。それどころか、空が晴れていた。


(なんだ)

 違和感を覚える。

 大気が風を失い、強く張り詰めていた。《転生者》の、敵の姿を探す。白い雪原に影がない。さきほどまで混乱した動きをしていたはずだ。

 彼らはどこへ行ったのか?


 異形の姿を求め、そして、ルジンは気づく。

(あいつ)

 森の方から、一つの影が歩み出ている。

 直立して歩く、漆黒の影だった。

 そう大きくはなく、人に良く似ている。せいぜいルジンの倍くらいのものだ。かなりの遠距離だったが、ルジンの眼はその人影を捉えていた。


 それは黒い甲冑に身を包んでいるように見えた。

(《転生者》――違う。ただの《転生者》なものか!)

 ルジンは直感的に判断する。

 ただ一人、森から出てきたその個体に対して、他の《転生者》たちは静かにうずくまっていた。ひざまずいたようにも見えた。


 黒い《転生者》は、防衛のために陣を張る人類の軍勢に、たった一人で相対した。

 そして、軽く左手を掲げる。

 その手には一振りの剣が握られていた。


 ――瞬間、景色が砕けた。大気が潰れた。

 そのように思った。

 ルジンは瞬きをする。雪原が割れて、人類の防御線が圧壊していた。築いた結界柵もろもとも、前衛が消滅している――いや。


(押しつぶされている)

 雪原に、その圧壊した肉体が飛び散っていた。

 ルジンは吐き気を感じた。それは紛れもない恐怖だった。


「陛下!」

 メリュジーヌが、ルジンの前に出た。

「《転生者》のブレイヴ個体です――あれは、クリシュナ!」


 彼女は知っているのだろうか。

 だとしたら、奇妙だ。あのブレイヴ個体は、なぜいま出てきたのか?

(防衛陣地を潰すのが目的か。割に合わない)


 ブレイヴ個体の活動時間は有限だ。

 一撃を加えてもまだ丘の陣地は健在であり、それを潰すのにあの調子で力を使えば、十日は動けなくなる。

 サヴラール市上層部にとっては、理想的な展開だろう。時間が稼げるし、非活性状態のブレイヴ個体を狙うこともできる。。


(それでも、いけると思ったのか? いや――)

 ルジンはもう一度、気づいた。空だ。

 翼をもった影が飛んでいる。それも人間の姿によく似ていた。背中に生えるのは、生き物の翼とは違う――金属の骨をくみ上げたような翼。それが、空を滑るように飛翔していた。

 こちらの背丈は、ルジンの五倍ほどあるだろう。


 だから良く見えた。

 その翼ある人影が、白い稲妻を立て続けに放つところを。

 少し遅れて、どぉん、と苛烈な轟音が響き渡った。何度も。連続して、その音が丘の陣地を砕いていた。


 あんな《転生者》は見たことがなかった。

 稲妻の連続射撃。

 爆撃と偵察に特化したウィッチでも、遠距離砲撃に特化したメイジでも、あれはできない。アーチャーとも違う。


「まさか」

 最も若い兵士の、アルノフが呟いた

「ブレイヴ個体が、二体」

 どうやら彼は、その現実と向き合う勇気があるようだった。


(やるな、こいつ)

 ルジンは近くに轟く雷鳴とを聞き、走る光を見ながら笑う。笑うしかない。

 少なくとも、本陣に戻ることは無意味になった。絶望的な気分だった。

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