メリュジーヌの翼 1

 ロースタルとその部下は、吹雪の向こうへ去った。

 元来た道を一丸となって戻っていく。数匹のコボルトのみが、その護衛についていた。

 残ったのは、ルジンとコボルトたち。それから、若い世話係が五人ほど――それだけだ。


「ルジンさん!」

 と、一番年下の世話係が叫んだ。名前はアルノフ、だっただろうか。

 馬を走らせながら槍を振るい、コボルトたちの援護をしている。

「もう、囲まれてます! ここを抜けないと!」


「そうだな」

 我ながら、間抜けな返事しか出てこなかった。

「お前ら、なんで残った?」

 八つ当たりのように言う。答えは返ってこない。誰もそれどころではない。


(このままじゃ死ぬぞ)

 コボルトたちは、最後にロースタルが残した指示の通り、その場で戦闘を続けようとしていた。

 彼らはそういう風に訓練されている。そうすることで生き延びられると思っている――いや、それも違う。

 コボルトたちはそうする以外に知らない。この場で戦う以外の選択肢を持っていない。


(笛があればな)

 ルジンはロースタルの持っていた笛を思った。

 コボルトたちの耳にのみ聞こえる音を出す笛だ。彼らは手振りや通常の口笛よりも、そちらの指示を優先するように教えられているようだった。


「くそ!」

 悪態をつきながら、ルジンはロースタルを追えばよかったと思った。

 後悔が少し――罪悪感から逃れられた安心感がまた少し。どちらが重いとも言えない。


(我ながら嫌になるほどの平凡さだ)

 あともう少し、罪悪感を振り切る勇気さえあれば、自分もロースタルに続いて逃げていただろう。

 ただし、立場がこうなってしまえば、許せない相手はいる。


(ロースタルの野郎)

 ルジンは奥歯を噛みながら、周囲を見回した。束の間、その余裕ができた。

 二十頭ほどのコボルトと、ルジンたちの戦闘は、《転生者》たちを寄せ付けないほどの防御力を発揮していた。よく踏みとどまっている。

 ただ、もう長くは持たない。

 脱落者が出始めている。


 呼吸を合わせて飛び掛かったコボルトの二頭が、一体のソードマンを仕留め、そのお返しのように後続に捕まった。

 バンディットたちが一斉に放つつぶては、彼ら二頭の体を容赦なく穿っている。


「――ルベラ!」

 ルジンは怒鳴った。吹雪の中でも、どうにか届いた。ルベラは黒ずんだ液体で濡れた口元を舐め、ルジンを振り返る。

「頼む。走るから、ついてこい!」


 ルベラはコボルトたちの長だ。

 彼女が動けば、他も続いてくれる可能性はあった。

 ルジンは懇願するように彼女を見た――果たして彼女は応えた。確かにルジンの訴える何かを理解したという気がする。


「来い! 全員だ、死にたくないやつ!」

 ルジンは再び、人間たちに対しても怒鳴った。

 この場でとどまっていたら、あと一分も持たない。とにかくその前に移動することだ。


 最も手薄に思える南側へ、ルジンは駆けだす。ルベラがそれに続いてくる。

 コボルトたちと、馬に乗った人間たちも追ってくるのがわかった。そうなれば、あとは振り返ってはいられない。

 突っ込んできた方向とは、逆へ突き抜けるような形になる。


(死にたくないな、俺も)

 心のどこかが、麻痺したようになっている。

 ルベラとほぼ同時に跳びかかり、バンディットを仕留める。雪を散らして走る。大きく呼吸すると、雪の欠片を舌に感じる。


 自分がコボルトのようになっているのを感じた。

 ワーウルフに固有の衝動だ。疾走する。戦う。狩りをする。頭痛のようにその本能が湧きだす。

 動く体が他人事のようだ。

 クグリ鉈を振り回す自分の腕が、どういうわけか妙に遠い。


「ルジンさん、左です!」

 不意に、アルノフの声が聞こえた。

 バンディットたちを率いたナイトが、こちらを遮ろうとしてくる。ここは抜けるしかない。ルジンは姿勢を低くした。


 バンディットたちがこちらを包囲するような形で動いている。囲まれたらつぶての一斉射撃が来る。

 それには耐えられない。


「いくぞ」

 ルジンは跳躍し、その一角を崩しにかかった。

 ルベラと同時ならば、それは難しくない。ルジンが足を断ち割り、ルベラが噛み砕いて、すぐに仕留めた。


 が、ナイトの方は止めきれない。

 槍を振り上げた途端、鳥肌が立つような感覚に襲われた。きん、と、耳の奥に痛み――それを感じたとき、傍らの雪原が砕けた。


 無意識に避けていたのだろう。

 見えない何かの力が放たれたように思う。

 その正面にいたコボルトたちと、騎乗していた若い世話係が一人、吹き飛ぶのがわかった。馬までもが血を吐き、前脚は折れていたはずだ。


 その一撃で、逃げる足が止まった。

 四方からバンディットの射撃を受けることになる。囲まれそうだ。


(まずいな、こいつは強い個体だぞ)

 ルジンは下がれ、と言おうとした。このナイト種を止めて、時間を稼ぐつもりだった。

 が、その前にコボルトたちが二頭、立て続けに飛び出している。騎乗した若者も一人。


 ほとんど無謀といえるほどの突撃だった。

 ナイトが魔槍を振り上げたとき、騎乗した若者が、呪術によって鍛えられた木盾を構えた。また耳鳴りがして、木盾に亀裂が入る。

 よろめいたが、よく止めた。

 残った若者の中で、もっとも大柄な青年だった。


「サマー、ウィル!」

 と、若者が叫んだのは、コボルトたちの名前だったのかもしれない。


 その指示に応じて飛び掛かったが、槍そのもので突き上げられた。二頭同時だった。血の飛沫が雪原に散る。

 ルベラが唸り声をあげていた。

(仇をとる気か)

 まともにやれば死ぬ。奇襲のときとは条件が違う。そう思った時、ルジンはほとんど反射的に動いている。


「やめとけ」

 ナイトの足元へ滑り込むようにして、細引きを投げた。槍に絡めるつもりで、肘のあたりに引っかかる。

 ルベラと、また別のコボルト二頭が跳んだ。

 彼女たちはナイトの前脚、腕と、首元を狙っていた。そのうち首元へ迫った一頭だけが、避けられた。


 ナイトは膝をつく。

 ルジンと目が合う。槍となった腕を、力づくで振り上げる――ルジンの力では抑えきれない。ルベラが着地して、こっちを見ている。

 何か言いたげだった。


(俺が阿呆だって言いたいんだろ)

 せめて、ルジンはできるだけのことをしようとした。相打ちでもいい。

 ナイトが槍を振り上げるのが見えた。素早い。先端が光る。


(妙だな)

 これが死の間際なら、もっとゆっくりでもいいはずだ。

(後悔する暇もない)

 ルジンは笑おうとした。

 その瞬間に、金色に光る何かが視界をかすめた。


 ぶちん、と、槍となった右肩から先が宙を飛んでいた。

 鋭い風切り音が響く――ナイトはその音を追うべく、首を動かそうとした。その首を、今度はルベラが過たずかみ砕く。


「陛下」

 翼の音が地面に着地した。

 吹雪の中でも彼女の髪は金色に光って見える気がする。呼吸は荒かったが、それを表情には出していなかった。

 彼女は片手に曲刀を握っていた。それで、ナイトの腕を飛ばしたのだろう。


「よくぞご無事で」

 メリュジーヌは青白い顔で微笑した。強張った微笑だった。

「陛下をこのような場所で失うわけにはまいりません。今度こそは。私がきっとお救い申し上げます」


(今度こそ。またそれだ)

 ルジンは舌打ちをした。その、何もかも知っているというような口ぶり。

 そこまで来れば、ルジンにも気づくことがある。


「いい加減、そろそろ教えてくれよ」

 ルジンは起き上がりながら、低い声で言った。

「お前、俺の未来を知ってるな?」


 ルジンの言葉に、メリュジーヌは顔を伏せた。

 肯定だな、とルジンは思った。

(そうだ。ベクトのやつは、《転生者》を……)

 思い出すことがある。ベクトの研究のことだ。

(――《転生者》を、人類に味方する《転生者》を作ろうとしていた)

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