コボルトの牙 2

 ルジンは呆気に取られて、平伏する二人を見ていた。

 実際のところ、困惑していたといっていい。

 ゴルゴーンとメリュジーヌの二人は、サヴラール市評議会の招聘によって最深部で歓迎を受けているはずだった。


 だが、なにを言うべきか迷っているうちに、メリュジーヌの方が先に口を開いた。


「……やはり、陛下。私をお怒りでしょうね」

 苦痛を堪えているような声だった。顔を伏せたまま、背中の翼も心なしか萎んでいるように見えた。


「無礼な言葉の数々、申し開きもございません。御身を侮辱した罪は、いかようにも罰してください」

 そうして、メリュジーヌは覚悟を決めたように顔を上げた。口を開き、その舌先を伸ばしてみせる。

「この舌を裂けというのなら、甘んじて受け入れます。――ですが、どうかお傍に侍ることだけはお許しください。必ずや、御身の戦の助けとなって御覧に入れます」


(なんだそれは?)

 ルジンはますます喋る気力を無くした。

 何かよほどの誤解があるように思えてならない。


「いや。違う、メリュジーヌ! 私にこそ陛下はお怒りだ」

 黙っていると、今度はゴルゴーンが口を開いた。

「――陛下! 私は御身を危険に晒し、あまつさえ助けていただきました!」

 ゴルゴーンは青い瞳を見開いた。気が遠くなるほど真剣な目をしていた。


「この両目を捧げよというのなら、喜んで捧げましょう。いま一度、陛下のお姿を拝見できたことを生涯の思い出とし――これより先は! 我が『瞳』にて御身の敵だけを見つめます」

 右腕を差し出すと、青い瞳が浮いて瞬きをした。


(なんだそれは)

 再び、ルジンはひどい疲労感に襲われた。

 めちゃくちゃなことを言っている。彼女たちの中で、魔王とはどれほど残虐な存在なのだろう?


(どうかしている)

 ルジンは頭を振り、現実から逃れるために部屋を見回す。

 そして気づいたことがある。


 やけに部屋の見通しがいい。

 今回の任務で出かける前とは違う――テーブルの上も棚の上も、放り出していた空き瓶やら衣服やらが一掃されていた。床や壁のつやも、まるで違う。

 掃除されているのだ、と一瞬遅れて気づいた。


「まさか、この部屋」

「ええ、陛下。僭越ながら。私が清めさせていただきました」

 ルジンがすべて言う前に、メリュジーヌがうなずいた。やや誇らしげな顔に見えた。

「すべて磨き上げておきました。こうした繊細な仕事は、怪力だけが取り柄のゴルゴーンよりも私にお命じください」


 横目にゴルゴーンを一瞥し、かすかに笑うのがわかった。

 ゴルゴーンは不愉快そうな顔になる。


「いや。待てよ、そういう問題じゃなく」

 ルジンは部屋の奥を指差した。

 そこには椅子がある。ルジンがよく使っていた椅子――のはずだった。

 が、それはいま二回りほど大きくなり、棘と牙のような装飾があしらわれ、座面には革張りが施されていた。


「……この椅子は?」

「はい! そちらは、私が!」

 ゴルゴーンは再び頭を下げた。

「これでも細工は得手なのです。いかがですか! お気に召していただけましたか? もっとふさわしい玉座としたいのですが……資材の問題で、いまはこれが限界なのです。申し訳ございません」


「限界というか」

 ルジンは予想外の変貌を遂げた椅子を眺めた。

「これは十分とんでもねえよ」

「……はい! ありがたき幸せ」

 どうやらそれを誉め言葉と取ったらしい。ゴルゴーンは口元をかすかにほころばせた。


 つきあいきれない、と、ルジンは思った。

 そもそも、彼女たちはどうやってここへ来たのだろう。サヴラール評議会が、こんな二人を自由にするはずはなかった。


「二人とも、なんでここに?」

「はい! それは無論、陛下のお傍に侍るのが、私の喜びであり――」

「そういうことじゃない」

 しゃべりだそうとしたゴルゴーンを、ルジンは素早く止めた。


「サヴラール評議会に招聘されてたんじゃなかったのか。最深部の居留施設に部屋をもらってたはずだろ」

 ダンジョン化された都市の最深部は、一定以上の権力者が住むことになっている。

 つまり非常に居心地がいいはずで、ルジンも一度だけ訪れたことがあった。この小屋のように、傭兵たちが暮らす地区とは雲泥の差がある。


「脱け出してきました。造作もありません」

 メリュジーヌは静かに言った。

 確かに。造作もないかもしれない。彼女たちの身体能力ならば、その一端を見ていた。


「帰ってくれ」

 ルジンは自分が顔をしかめているのを自覚した。

 こんなことでサヴラール評議会との関係を悪化させたくない。彼女らは賓客であり、見つかれば自分がひどい目に遭うだろう。

 ただでさえ、自分は都市警備隊に目をつけられている。

「いますぐ頼む」


「やはり、陛下……!」

 ゴルゴーンはこの世の終わりのような顔をした。

「我々を許されぬのですか。どうか、いま一度機会を! 必ずや、今度こそ御身のために身命を――」

「違う。というか、そろそろ気になってたきたんだが」

 ルジンは座る場所を探し、仰々しい装飾の椅子を見て、ため息をつく。立ったまま喋ることにする。


「いま、『今度こそ』って言ったな? どういう意味だ?」

「あっ」

 ゴルゴーンは露骨にうろたえた。

 右腕の目が開き、ぎょろぎょろとせわしなく泳いだ。本人もメリュジーヌと顔を見合わせる。

「メリュジーヌ! これは、良くなかったか?」


「愚かすぎるわ……前から薄々と思っていたけども……」

 メリュジーヌが目を閉じた。あるいは頭痛でも覚えたのかもしれない。

 首を振って、ルジンを見上げる。


「……恐れながら、陛下。我々は陛下の忠実な臣下です。しかし、陛下に申し上げるべきではないこともございます。それはお耳に入れることそのものが、陛下の不利益につながるからです」

 それはまるで理解できないような説明だった。

 ルジンは二人の「臣下」を名乗る女を見た。どちらも、真剣そのものの顔に見えた。どこか切迫感があるといってもいい。


「そのように、ベクト師から仰せつかっております」

「ベクトが?」

 ルジンはその名前を知っていた。


 ベクト・ダウライ。

 昔、子供の頃――別の道を歩くことになった男の名前だ。同じ故郷を出て、ルジンは傭兵になり、ベクトは王府で史上最年少の「賢者」となった。


 賢者とは、呪術を操り、この世の理を明かす者のことを言う。

 学術都市ワグラトゥで《転生者》に対抗する方法を研究していたはずだった。

 その存在は、ルジンにとっては一つの大きな希望だった。これ以上はないほどの。


「あいつは」

 わずかな恐れがあった。それでもルジンは尋ねていた。

「無事なのか? 生きてるか? いま、どこで何をやってる?」


「どうせご無事でしょう。あの人、ひ弱ですけど異常にしぶといですから」

 メリュジーヌはうなずいたが、その言い方にはどこか突き放したような気配があった。気持ちはわかる。

 いつ死んでもおかしくないような虚弱体質のくせに、気づけばいつも生きていた。

 そういうやつだ。


「ワグラトゥから脱出したとき、ベクトも――じゃなかった、ベクト師も一緒でした。ええ。そうです」

 メリュジーヌは慌てて言いなおした。

 ルジンの機嫌を確かめるように視線を向け、また続ける。

「エキドナやアグラットが嫌々ながら同行していました。おそらく無事でしょう。あの二人で護衛ができなかったら、もうどうしようもありませんから」


 また知らない名前が出てきた。そう思ったが、ルジンは大きく息を吐いていた。

「……そうか」

 希望はかろうじて繋がった。


 王府が落とされようが、学術都市から人類が撤退しようが、ベクトが無事ならどうにかしてくれるはずだ。自分はその時間を稼ぐだけでいい。

 単純な行動目的を実行するというのは、なんと気楽なことだろうか。

 ただ一つ、気になるとすれば――


「なあ」

 ルジンは二人に声をかけた。

「なんで、俺のことを魔王って言った? ベクトのやつが何か吹き込んだのか? 少なくとも俺は、そんなにたいした人間じゃない」


「いいえ」

 即答したのは、ゴルゴーンだった。

 拒否の言葉は断固としていたが、その顔は少しだけ微笑んでいるように見えた。

「そんなことはありません。私はよく知っています。陛下は、私たち皆の希望です」


(見てきたように言いやがる)

 ルジンは苦笑した。

 どうやら彼女たちは、重要な情報をベクトに口止めされているらしい。

(あいつがそう考えるなら、そうなんだろうよ)

 これ以上問い詰めても無駄だというのなら、言うべきことは一つだけだ。


「帰れ。もう評議会がお前たちを探してる頃だ」

「そんな!」

 ゴルゴーンは泣きそうな顔になった。もしかしたら、本当に少し泣いていたかもしれない。


「万が一陛下のお命を狙う輩が現れたら、我々はどのようにお助けすればいいのですか? それに、こっ、こ、今宵は陛下から、もし、もしも許されるのであれば、ご寵愛のしるしを――」

「いいから、すぐ帰れ」

 ルジンは窓の外の気配に気づいている。


 都市警備隊が、巡回している。

 こんな地上層を彼らが巡回することなどない。だが、評議会の賓客が行方不明になったのなら話は別だ。


「俺は忙しい。明日から別の戦線だ」

 それを言ってから、間違えたと思った。

 ゴルゴーンとメリュジーヌが、無言で目配せを交わすのがわかったからだ。

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