5-3 「謎めいた遺言と奇妙な老人」

 小さな紙に印刷された、五七五七七の暗号文を片手に、私は香織、益子美紗と共に、この滑志田邸を散策していた。遺産相続に関しては滞りなく行われ、互いに納得する形に終わったが、滑志田文代の思い出の品々を探さなければならなくなった。


 思い出の品々、ということはおそらく金銭的な価値は持ち合わせていないと思われるが、万が一歴史的価値のあるものがあった場合、明確に分配する必要性があるためである。


 滑志田卯憲と滑志田みどりは、遺産に関して見ず知らずの瓢家に『奪われる』と思っていたらしいが、相続人である霜太郎氏は気にしている様子はなかった。おそらく、滑志田文代氏と瓢暦子の関係は非嫡出子であり、正当な相続人であると思われているからである。


 さて、そもそもこの滑志田邸は、現在は滑志田霜太郎氏とその妻・師世の二人が住んでおり、息子夫婦の朔・如実夫妻と、その子どもである卯憲・みどり・水樹は別の邸宅に住んでいる。その邸宅は意外にも、今私が住んでいる安アパートから近い一軒家らしい。


 平屋の滑志田邸は、門扉から玄関まで広い庭が広がっている。犬養家の屋敷で見たような池もあり、こちらは潰されていない。特に特徴的なのが、玄関まで続く道のりに小さな石灯籠が、両脇に等間隔で並んでいるところだろう。よく見ると中は電飾なのだが、古くはここに蝋燭を入れていたのではないかと思われる痕跡がある。和蝋燭を載せるための燭台がそのままになっており、それを利用して電飾が取り付けられていた。


「それにしてもこの暗号なんなんだろうね」と香織が言いながら、私が手に持った暗号文を見ている。「なんかあれだよね、川柳みたい」

「いや、こりゃ川柳というより、和歌だな。それも百人一首の引用だ」と私は答えた。


 百人一首とは、鎌倉時代の歌人である藤原ふじわらの定家さだいえがまとめた百人の和歌の事だ。天智てんぢ天皇から順徳じゅんとく天皇のおよそ五五〇年間の間に詠まれた和歌を、定家が小椋山の山荘にある屏風に揮毫きごうしたものが、後に歌がるたとして定着した。


「百人一首……なんかそんなのやった気が……」

「私も誰が何を詠んだのかまでははっきり覚えていないが……。一番上の『きみがため』はよく聞くね」

「『きみがため』から始まる歌は二首。光孝こうこう天皇が詠んだ歌と藤原ふじわらの義孝よしたかの詠んだ歌だな。確か意味は、『あなたに逢うため』という意味合いだ」

「ほう。詳しいな」

「学科が文学部なもので」


 そう。振り返るとこの暗号文は、まさに小倉百人一首に選ばれている歌をパズルの様に組み合わせた文章になっている。


 「きみがため」は、光孝天皇の「きみがため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪はふりつつ」、あるいは藤原義孝の「きみがため 惜しからざりし いのちさへ 長くもがなと 思ひけるかな」。


 「衛士のたく火の夜は燃え」は、大中臣おおなかとみの能宣よしのぶの「御垣守 衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ」。


 「置き惑はせる」は、凡河内おおしこうちの躬恒みつねの「心あてに 折らば折らむ 初霜の 置き惑はせる 白菊の花」。


 そして「あふ坂の関」は、蝉丸せみまるの「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも あふ坂の関」。


「もし無理矢理訳すなら……、『あなたに逢うため、衛士の燃やす篝火が夜に燃え、見分けがつかなくなっている関所』ってところかな……」

「どうして関所になるの?」と香織が聞く。

「『あふ坂の関』っていうのは、山城国やましろのくに近江国おうみのくに……、今の京都府と滋賀県の間に存在した国境間の関所のことでな。和歌ではよく、恋仲の男女が逢いたくても逢えない悲しさを詠んだ歌に使われてるんだ」

「ああ、だから直訳で関所」


「しかし、その直訳がその通りだとして、一体どういう意味を?」と益子美紗が訊く。それに答えようとした時だった。


「だからその庭に来てるんでしょう?」


 突然後ろから声を掛けられた。若い男の声だった。一番遺産相続に興味が無さそうな、滑志田水樹だった。大広間で俯いている姿しか見ていなかったが、正面から見ると、あどけなさのが残るものの無精ひげを生やした卯憲氏とは違い、清潔感のある爽やかな容貌だ。


「君は確か、水樹さん……でしたっけ」


 私は恐る恐る名前を訊いた。


「あってるよ。ところで君たち、本当に姉弟じゃないんだろう?」

「ええまあ、いろいろと複雑な……」

じゃなくて、で」


 滑志田水樹が言っているのは、私たちが『複雑な家庭事情で姉弟となった身』ではなく、『そもそも姉弟ですらない赤の他人同士』を示唆しているのだと察した。


「いつから?」

「そこの女の子が、爺ちゃんに姉弟かどうかを訊かれたとき、凄く目が泳いで動揺してたから」

「えっ!」


 思わず声を香織は漏らす。君は確か演劇部じゃなかったのか……。とはいえ、アドリブで突然話を合わせられるほどの技量を高校生に求めるのも酷である。


「洞察力がいいんですね」

「他人行儀はよしてくれよ。同い年だろ、四谷小春さん」

「……ほう。知ってるのか」

「ボクたちの家の前をうろちょろしていた、やよいさんとよくつるんでいたら、嫌でも分かるさ」


 なるほど、私たちが共に行動している姿を見ていたらしい。


「まさかと思うが、君が香織を……」と、あの誘拐事件について触れる。

「いや、それは兄さんの仕業だ。それについては申し訳ない」と水樹は即答した。「兄さんはボクとは歳が七つも離れてるんだが、遊んでばっかりでね。大奥様の遺産を独り占めしたかったんだろう」

「……私の勤め先に掛かってきた電話については知っているかい?」と益子美紗が訊く。

「あれは父さんだな。父さんは余所者に遺産が渡るのを嫌がっていたから、根回ししたかったんだろう。結果的にカリギュラ効果が働いてしまったようだけどね」

「かり……?」


 カリギュラ効果 ――禁止されるものほどついやってしまいたくなる心理現象―― の意味を知らない香織を他所に、滑志田水樹は話を続ける。


「まあそんなことはどうでもいいんだ。皆さんに話しておきたいことがあるんですよ。実は、瓢やよいさんが……いや、正確にはそのお婆様である瓢暦子さんに相続権がある件について心当たりがあってね」

「心当たり?」

「この家は大奥様、それから爺ちゃん婆ちゃんの三人で暮らしていたんだけれど、今から十年くらい前まで、この家には全く知らない老人が良く出入りしていたんだ。もしかしたら、その老人と瓢さんが関係しているんじゃないか、とにらんでいるんだが……」


 意外な人物からの情報に戸惑いこそあったが、滑志田邸に出入りしていたその老人の話は興味深かった。


「爺ちゃん婆ちゃんより高齢のように見えたから、同い年か多少前後したかくらいの年齢だと思う。年齢の割には元気に足繁くこの家を訪れていたんだ。それが十年前を境にぱったり来なくなったんだけれど、恐らく亡くなられたんじゃないかなと思っている。瓢さんの近親者で十年前に亡くなった方は?」

「いましたね、益子さん」

「曾爺ちゃんの、瓢長介か?」

「いるんですか」

「ええまあ」

「あなた方が遺産相続できたのは非嫡出子だからですけど、ボクが思うにそれは、大奥様はその長介に子を作らされたからそうなったもので、元から我が家から長介氏が遺産を横取りする気だったんじゃないかと思ってるんですが……」


 そう滑志田水樹がかなり酷い物言いを言うと、益子美紗はドスの利いた声で答えた。


「お前は私の曽祖父を愚弄する気か?」

「いやいや、そんなことを言いたいんじゃないんですよ、あくまで可能性の話じゃあないですか。でもそう思いません? 全く関係のない人間が相続人だなんて、普通おかしいじゃないですか」

「それはその通りだと思うがね。どうも、君たち滑志田の人間は、瓢家に対して並々ならぬ敵意があるようで、嫌味にしか聞こえないのだが」

「心外だなあ、ボクは違いますよ。まあ父さんや兄さん姉さんにはあるんじゃないかな。縁もゆかりもない人に遺産が行くかもしれなかったわけだし。あ、でももし無理矢理遺産相続させようとしてたとしたらその権利は……」


 明らかに滑志田水樹が益子美紗を挑発しているのは明確だった。とはいえ益子美紗が激高するとは思えなかったが、制止したのは意外にも香織だった。


「ちょっと! いくらなんでもほぼ初対面で言って良いことと悪いことがあるんじゃないの!」

「!」


 水樹自身も、まさか香織に反論されるとは思ってもみなかった、とでも言いたげな表情をした。


「……まあとにかく、ボクたちはあまり君たちを歓迎していないのは分かってるだろう? 下手にこの家をうろつかれるのは嫌だということを伝えておくよ。たとえ異父いふ兄弟姉妹けいていしまいでもね」


 そう言って滑志田水樹は、若干の苛立ちを見せながら立ち去った。その背中を見ながら、香織が文句を言う。


「何アイツ……いけ好かないやつ!」

「まったくだな……。あんな態度で俺と同い年とは……」

「……え、小春もあんなもんよ?」

「えっ」


 香織の言葉に少しショックを受けた。

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