#4-4

「すっごく素敵」とオペラがうっとりした目で言うのを、ノワールは遠い心持できいていた。「そうだろう」と満足気に頷いて次のページを捲る男の指を見ながら、ノワールは面白くなさそうに頬を掻く。「お嬢さん、この人は?」とノワールは、ぶっきらぼうにオペラに訊ねた。

 いつものようにふたりで公園を散歩していたはずなのに、気が付くとオペラはまた再び、あのノワールが知らない穏やかそうな青年とベンチに腰掛けて分厚い本を捲っている。ノワールがオペラと離れていた一瞬の隙に――、「油断ならない」と思っていたのを、思い切り顔に出してノワールはオペラに「この人は?」と声をかけたのだった。

「二軒先のお屋敷に住んでいる息子さんよ。最近とてもきれいな恋人ができたんだって、ご近所で噂になっていたの」

「は?」とノワールは、オペラの言葉の意味が分からず眉間を曇らせる。そんなノワールよりも本に夢中になっていたオペラは、ノワールの様子に気が付かないままその本を両手で重そうに広げてノワールに見せた。「これ、その恋人さんのスケッチなのよ、ノワール。見てみて、本当に綺麗だから」

「惚気みたいなおはなしをね、沢山お話ししてくれるのよ。本当に素敵だわ」

「はあ、惚気をきいていたんだ、お嬢さん……」

「随分面白い趣味だね」とノワールは呟いたけれど、その声に、安堵から込み上がってくる笑いが含まれていることに、オペラはきっとなんとなく気が付いているのではないかという気がして、ノワールも気が気ではない。

 なんであれ――こんな間抜けな誤解がほかにあるだろうか、とノワールは腰に手を当てて、もう片方の手で頭を抱える。「まあ、よかったといえば……」

「なあに? どうかしたの」

「どうもしないよ、オペラ」

 久方ぶりに彼女自身に向けてその名を呼んで、その響きにノワールは我知らずほっとする。オペラはなぜかぱちぱちと目を瞬いて、それから嬉しそうににっこり笑ってみせた。ノワールはオペラが開いた、その男が描いた恋人だという女性を見て、「オペラのほうが綺麗じゃないか」と呟く。

 その言葉をきいて、青年が「これはこれは! 伯爵に一本取られました」と愉快に笑って言ったのを、ノワールは冷ややかに見やる。「もう、だからなにに怒っているの、ノワール」とオペラが訊ねたのを最後に、ノワールはオペラの手を無理やり引いて、青年からオペラを引き剥がしにかかった。

「なに、どうしたの?」と、青年から離れてからオペラが訊ねる。「痛いわ。離して頂戴」とやや不機嫌そうな彼女の声で、ノワールはオペラに向き直りこほんと一度咳払いした。「なんでもないよ、お嬢さん」

「……ねえ、ノワール。私、分かってきた気がするわ」

 そう目を細めたオペラに、「なにが?」とノワールは一歩後ろに退く。オペラはそのぶん間を詰めるように一歩踏み出した。オペラから、ノワールがあげた香りものの匂いがふわりと香る。「妬いているとき、お嬢さんって呼ぶようになったのね?」

「……なっ」

「あら、図星?」

 一気に顔を真っ赤に染めたノワールに対し、オペラは当てずっぽうだっただけらしく小首を傾げた。「やだ、本当に?」と何度も訊ねてくるオペラに、ノワールもいよいよ目を逸らすしかない。「お嬢さん……」と恨みがましく彼女を呼ぶと、彼女はどこか満足気に「オペラよ」とノワールに呼びなおしを求めてくる。

「……オペラ」

 ――たかが女性の名を呼ぶだけで、こんなに恥ずかしいものなのだろうか!

「もうこんな話、終わりにするよ」と恥ずかしさまぎれに言うノワールに、オペラはとても嬉しそうだった。

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