#4-3
ノワールは、その日の夜、再びいささか酔ってサフランの屋敷に現れた。「どうしていつも家に来るんだ」と困り果てているオペラの兄に少しだけ絡んでいたノワールは、心配そうに様子を見にきたオペラと顔を合わせた瞬間、酔いからすっと醒め、「お嬢さん」とオペラを平静の調子で呼んだ。
「なあに」と返事をするオペラに近寄って、「ちょっとふたりで話がしたいんだけど、良いかな?」と囁く。
「怒っているの?」とオペラがノワールに訊ねても、ノワールは「怒っていないよ。変なことを言うね」と笑みを止めない。
ノワールの様子がいつもと違うことに、オペラも気が付いているらしい。唯一感知していないらしい兄に断りをいれて、オペラは自室の前を陣取ってノワールと対峙した。「どうかしたの、ノワール。なんだか変よ」
ノワールは、オペラの顔をじっと見つめ、数秒間のあと、「お嬢さん、これ。あげる」、と言って背中に回していた一輪の、少しだけ痛んだ花をオペラに手渡した。それは紛れもなくオペラに、と思って買ったあの花束の一輪で、捨てようとしたができず、一輪だけ拾い上げて、それからずっとノワールが手に持っていたものだった。
しかしその花を見たオペラがそんな事情を察するのはどだい無理な話で、オペラは何の気なくその花を受け取ると、「ありがとう、水をあげないといけないわね」
ゆっくり、オペラがその一輪を指で回す。「元気がないわ」と呟いた彼女の言葉は、花のことを指しているのに、ノワールの耳に彼自身のことであるように聞こえた理由を、彼は知っている。
「ねえ、お嬢さん」とノワールは、平常を装って声を掛ける。オペラは花に伏せていた目を上げた。木の実のような大きな丸い目が、いまのノワールには彼女の魅力に見えないでいる。
「結婚しようか。婚約してもう随分経ったし、もう良いんじゃないかな? 結婚しても、お嬢さんは好きにしていいよ。お金ならシュヴァルツのだって自由に使っていいし、……恋だって、好きにすれば良い」
これを言えば、彼女はどんな反応をするだろう――と思いを巡らしながら発した言葉だったのに、オペラはノワールの目をじっと見て、「ノワール?」と疑問符をつけて彼の名を呼んだだけで、口を閉ざしてしまう。彼女の澄んだ目がじいっと自分を見ていることに、ノワールはだんだん耐えられなくなって目線を逸らしそうになり、誤魔化すように目を細める。うまく微笑めていたはずなのに、オペラはやっと再び口を開くと、「笑わないで、ノワール。寂しいときは泣くものよ」
「は?」、稍々間を置いたあと、ノワールはさすがに呆気に取られる。オペラは頓狂な言葉を続けた――「貴方、お酒を飲むと寂しくなるのね? やっとわかったわ。今日は私と一緒に寝ましょう」
「は、いや、お嬢さん、俺はそんなつもりじゃなくて」とノワールが目を白黒させているのを見て、オペラは腰に手を当てる。「じゃあどういうつもりなの? 結婚ってなによ。なにを言っているんだか、ちっともわからないわ。人恋しいときの一人寝は、心に毒!」
「大丈夫よ、私は客室で寝るもの。私のベッドになら、ぬいぐるみが沢山いるから、ノワールも寂しくないわ」
「……はあ?」とノワールから間の抜けた声が出る。彼は自分が想像していたこととオペラが考えていることの違いに気が付き、顔を赤らめるのもそこそこに、はああ、と深く脱力した。「なにをやっているんだ、俺もお嬢さんも」と決死の思いだった自分が情けなくなる。
「良いから、私の部屋で寝て頂戴」とオペラに押し切られ、ノワールは落ち着かない思いでオペラの部屋の隅にひとり、丸くなっていた。ノワールにとっては「それなりに広い」一室をあてがわれたオペラの部屋は少女らしい内装で、壁面には小花が散り、絵本のような絵が小さく一枚だけ飾られ、天蓋つきのベッドには彼女のいうとおりぬいぐるみがひしめき合っている。ふわりと漂う香りを知っている、とよく考えてみると、それはどうも、ノワールが以前彼女に贈った香りものの匂いのようだった。
「……オペラの部屋なのに、自分の匂いがするって、変な気分だな」とノワールは身を縮こませる。ため息をひとつ吐いて、ノワールはベッドを見やり途方に暮れた。こんなはずではなかったのである。
「オペラときちんと折り合いをつけ、元のシャノワール=シュヴァルツに戻ろう」と思って、酒の力まで頼って――とここに来るまでのいきさつを思い出し、ノワールはますます頭を抱える。オペラの部屋にはどことなく彼女の気配が残っており、それを意識するともっと酔いが回りそうだった。
「……俺、自信がないんだ、お嬢さん」
オペラのベッドのうえに並ぶぬいぐるみから、赤毛の大きな栗鼠を選んで、ノワールは小声で話しかける。どこかオペラに似た顔のその栗鼠を見ていると、なぜだか普段話せないことが、いまなら打ち明けられる気がした。「周りは皆、俺のことを恵まれているっていうけれど、本人がこんなに情けないなんて、誰も知らないんだ」
「寂しい時は泣くものよ」という彼女の先ほどの言葉が脳裏によみがえる。小さな彼女の声が聴こえたのは、そのときだった。「ノワールが寂しがりだなんて、私は随分前から知っていたわよ」
がばっとノワールはベッドに凭れていた体勢から立ち上がり、きょろきょろと辺りを見渡す。「お嬢さん、聞いて……っ!?」と慌てふためいて、迷うことなくノワールは部屋の扉を開け放った。途端、「きゃっ!」と短く叫び声をあげ、オペラ本人が部屋に転がるようにして入ってくる。しばらく地面に伏せたオペラと目を見合わせていたノワールは、やがて今日何度目だか分からないようなため息をこぼしてオペラに「……大丈夫?」と手を差し伸べた。
「ノワール、さっきの話」、ノワールに起き上がらせてもらいながら、オペラは小声で訊ねる。ノワールはちょっと黙り込んだあと、「うん」と頷いた。
「きっとみんな、本当は知っているわ。ノワールが寂しがりやなこと」
「……うん。でもさ、お嬢さん」
ノワールは立ち上がったオペラの手を引いて部屋を出ると、後ろ手にそっと扉を閉めた。「このことは、お嬢さんと俺だけの秘密にしてほしい」
「秘密?」とオペラが繰り返す。「そう」とノワールは笑った。――先ほどまで、色彩が滲んだかのようだったオペラの丸い綺麗な目を、ノワールはなぜかいまこのとき、いつものように愛しいものに見えていた。
「俺と一緒に、胸に秘めていてくれる?」
ノワールの言葉に、オペラはすこし考えた後、いつものように明るく笑った。「いいわ。いつまでも内緒にしてあげるわね」
「その代わり、寂しいときは頼ってくれる?」とオペラが口元をほころばせたのを見て、ノワールも同じように頬を緩める。オペラの薔薇色の頬を見ていると、こんなに美しいものは、この世にないと思うのは……「そういうことなんだろうな」と、ノワールはやっと、その感情を自身で認めることができたのだった。
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