第四章 婚約者のオペラ

#4-1

「今日こそ、ノワールに昼飯を奢ってもらう!」と息巻いてやってきたはずのブルーノを、カードで打ち負かしたノワールはふふんと上機嫌に鼻を鳴らした。「だから言ったのに、ブルーノに俺を負かすのは無理だってさ」

「こんな……おかしい……裏でなにかやっているんだろう……」

「なにもしてないよ。しいて言うならブルーノは顔に出すぎる」

「ああでも、単純に運の悪さもあるね」とノワールは場に開いたカードを再び指さす。「ほら、ブルーノと俺のカードを見てご覧」

 ノワールの手札を再度確認して、「強運……」と呟いたブルーノに、「おかしいなあ」とノワールは顎に手を当てて考える。「そこまで強運でもないんだけど……ブルーノに俺の悪い運がいっているのかな」

「いや、お前は賭け事に強すぎるんだ」

「勝てそうにない相手であるなら、俺だっていつもは頭を使うんだよね」

「いつもは?」と鸚鵡返ししたブルーノを敢えて無視して、ノワールは「さて、ブルーノ、昼飯にいこう」とにっこり笑った。

 ブルーノに「うまい店がある」、と妙ににこやかに言われたノワールは、「なんだか嫌な予感がする」と思いながらもその店にブルーノと連れ立って歩いていく。ブルーノは「ここだ」とその店を指さしてにんまり笑い、ノワールは「やっぱりか!」と心の中で悪態をつきながら、努めて平静に呟く――「謀ったな?」

「謀っていない。うまい店なのは本当だからな!」

「ほら、店を変えるよ、ブルーノ……」

 自信満々に言う将来の義兄を軽く睨んで、ノワールはブルーノの背を押す。ブルーノは「なんで入らないんだ? 残念だなあ。俺は今日ここしか行く気がなくて」

「なんだ、なんだ。お前は出禁だぞ、ノワール」

 店の前で右往左往する顔見知りに、店主が近付いて不機嫌に言い放つ。ノワールはその店主の水色の髪を見て、はああと深い息をブルーノにも向かって吐いた。「コパン。これはその、お義兄さんがね」

「誰がおにいさんだ」といつものようにむっとするブルーノを、「それはいいから……」とノワールはこっそり窘めた。「ほら、出禁だって。俺を無理やり連れてきたことがコパンに知られたら、ブルーノも出入り禁止になるよ」

「ノワールじゃない! コパン、店にいれてあげなさい!」

 三人の男たちの耳に飛び込んできた一際甲高い響く声に、ノワールは思い切り眉間に皺を寄せる。「わあ」とつい呟いて、引き攣る顔で無理やり笑顔を作り、「シアメーセもいたの……」

「え、でも、シアメーセ」、コパンはいつものふてぶてしさを忘れたかのような態度で腰を折り曲げ、あわあわと胸の前で両手を忙しなく動かしながら困り果てる。それからちらりと、ノワール、ブルーノのふたり――ブルーノは「まさかの展開だ……」とでも思っていそうな顔をしている――を見やって、ノワールが先ほど吐いたそれよりもっと深い深いため息を落とし、「……運が良い奴」と店の入り口を無愛想に指さした。「入れ。特別だ」

「いや、そんなお気遣いはしてくれなくても良い!」

「そうだよ、ブルーノの言う通り、俺たちは別の店に行くから良いよ。気遣ってくれて有難う」

 ブルーノとノワールの思惑は違えども、意見だけが妙に一致して、ふたりは口々にそう言って頷きあう。冷や汗をかく二人をじとっと見たのはコパンだった。「シアメーセが食べていけと言っているんだから、食べるのが礼儀だぞ!」

「どういう理屈なの、それ」と脱力するノワールに、コパンは「五月蠅い」と言い放つ。店の扉に手をかけて、こんなときばかり人懐こい笑顔を浮かべたシアメーセが、「ノワール。話は済んだかしら」と有無を言わさない口調でノワールに訊ねたことで、ノワールとブルーノの意見は発することすら許されず、とりあえず二人はコパンの青猫レストランで食事をすることになってしまった。

 青猫レストランは、内装を新しくしたばかりで、どこもかしこも真新しい店のようである。角の席に座って、ノワールは「随分久しぶりに入ったなあ」と店内を見回していた。その横にちゃっかりとシアメーセが相席し、彼女の向かいにブルーノが腰かけている。

「二人は、どうしてまた連れ立っているのよ。最近よく見かける組み合わせね、前はそう見るものでもなかったのに」とシアメーセが上機嫌に訊ねる。それに答えたのはノワールだった。「ブルーノがさ、オペラに言われて、賭けをするのは俺とだけ、賭けるものも安い昼飯だけにすることになったんだ」

 シアメーセは目をぱちくりと瞬いたあと、はじけるように笑いだした。「それは面白いじゃない! どうしてまた……ああ、あの小生意気なお嬢さんとノワールに迷惑をかけたからかしら」

「うっ、そんなずけずけと言わなくても」とブルーノがシアメーセに縮こまる。ノワールはちらりとブルーノを流し見て、「そうだね……」と語尾を弱く呟いた。

 そのノワールの様子に、シアメーセは敏く首を傾げる。「あら、なにか含みがありそうな返事ね」

「まったく、女性は本当にこわい」とノワールは心中で呟き、「なんでもないよ」と表面ではにっこり笑って受け流す。「ふうん」と鼻を鳴らし、シアメーセは、「あの泥棒猫の件で懲りたと思っていたのに、賭けをするってことはまだ懲りていないのね」

 その言葉は、一見するとブルーノへの嫌味のように聞こえるのに、シアメーセの細められた視線はノワールに投げられていた。さすがのノワールも、そのシアメーセの様子にぴくりと眉を跳ねる。「なに、もしかして俺に言っているの?」

「さあ、どうでしょうね」

 赤い口の端を歪め、シアメーセは腕を組む。その様子を眺めながら、ノワールはぱっと表情を切り替えた。「ま、良いけどね。そういうことはブルーノに言いなよ」

「――貴方って、いつもそうね、ノワール。肝心なことからすぐに逃げる」

 シアメーセが歌うように吐いた言葉を、ノワールは聞き逃さなかった。それでも彼は「は?」と言いそうになったのを飲み込み、笑った顔を崩さずに、「うん?」

「なんだ、なんだ」とブルーノが慌てだした横で、ノワールとシアメーセの空気が冷え切っていく。「おい!」と間に割って入ったのは、頼まれた料理を持ってきた――いつもならウエイトレスに任せるところを、シアメーセがいるからと張り切って店主が出てきたようだった――コパンである。「喧嘩なら外でやってくれ。さすがにシアメーセでも、営業妨害は困る」

◆◆


「あのぽんこつ伯爵に言っておいて頂戴。逃げ癖も大概にしなさいよって」とブルーノに言い残して、靴を鳴らして去っていったシアメーセの背中を見送り、怖々とノワールにブルーノが近寄る。

 ノワールはといえば、シアメーセや、ブルーノから顔を背け、腕組をしたままいよいよむっとした顔で突っ立っていた。「おい、ノワール、お前、変だぞ」とブルーノが肩に手を置くと、ノワールははあと息を吐いた。「気分が悪い、俺は帰るよ。ご馳走様、ブルーノ」

「おいおい、待て。いつもならあれくらいで怒らないだろうに、なんでまた? 虫の居所でも悪かったのか?」

「俺だって、怒るときは怒るんだよ」

 早足で帰ろうとするノワールの背を、ブルーノが歩幅をあわせながら矢継ぎ早に問いかける。ノワールはうんざりした調子で八つ当たりするように言い放つと、くるりとブルーノを振り返った。日頃見ないほどに眉を吊り上げたノワールの表情を見て、「これは本当に、虫の居所が悪いらしい」とブルーノは肩をすくめる。

「ブルーノ。次の賭けはまた今度にしよう」

 冷ややかに笑うノワールに対してブルーノはなにも言えなくなり、ノワールを追いかけていた足を止めてしまったのだった。

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