#2-4
サフランの屋敷に帰ってきたオペラは、シアメーセと別れたあとに、自分の胸に薄っすらとかかった靄を、どう発散すれば良いのか考えあぐねていた。
酒を飲みに出かけるのだと言っていたはずのブルーノが、オペラの普段あまり見ない様子を心配して、これまた珍しく酒場を断り、オペラの傍に座って、「一体どうしたんだ、オペラ?」
「……兄さん、よくわからないのだけれど、なんだかすごく苛立つの。ノワールが私をわざわざ屋敷に連れて行くから、なにを企んでいるんだろうって思っていたけれど、それって、自分の恋人に示しをつけるためだったのね」
オペラの言葉に、それまで真剣に訊いていたはずのブルーノは唖然としてしまう。しばし、妙な間を開けてしまったあと、ブルーノは稍々迷うようにオペラに訊ねた。「……その恋人っていうのは、もしかして、その」
「舞台女優のシアメーセ、なんて素敵な恋人がいるのなら、はやく言えばよかったのよ、ノワールも。そうすれば、私だって、ノワールの婚約者になろうなんてこれっぽちも考えなかったのだし……」
婚約者の話は、ブルーノにとって自分の過ちのようなものである。「ま、まあ、その話は置いておいて」とブルーノが言ったことで、オペラもそれを思い出し、彼女は兄をじとっと睨みつけた。「兄さんのせいでもあるのよ」
「オペラ、まあそれは良い。それは良いんだが、その、なにか誤解をしていないか? シアメーセはノワールの恋人では……」
「だって、兄さんが言ったじゃない。ノワールには恋人がいるんだ、って。ノワールが恋人の舞台のチケットを度々私にくれたのも、思えば、恋人がいるんだよって、言外に教えてくれていたのかも……」
そう言われてしまえば――幾らかオペラの妄想が含まれている気もしないことはないが――、ブルーノには返す言葉がない。「まさか自分の過去の行いが、ここまで首を絞めるなんて……だけど、よくよく考えれば、ノワールとオペラの仲が違うのは良いことのような……、でもそうするとオペラの名誉に傷が入るし」と、ブルーノは勝手に板挟みになってしまった。
ブルーノは、全部知っているのだ。ノワールとシアメーセの関係が、「恋人」なんてものではないことを。ノワールはオペラと婚約者になる前は独り身で、だからこそ沢山の女性と遊んでいただけだということも、シアメーセはその中の一人、ノワールを崇拝している女性でしかないということも。
ノワールとシアメーセは、シアメーセがノワールに強引に迫っているだけで、何の関係もない、持ったこともないということが、どうにも、思い込みの激しいオペラには伝わらなさそうである。
「どうすればいいんだ」と、ブルーノがこっそり自分の頬をつねっていることに、オペラはまったく気付いていなかった。彼女も彼女で、ノワールとシアメーセに関して誤解を募らせているのだ。
「ごめんなさい、ノワール。私のことに巻き込んでしまって」
翌日、オペラはそういってノワールに深々と頭を下げた。「え? なに、どうしたの、お嬢さん」とノワールが首を傾げる。オペラは言った。「貴方に恋人がいるなんて、知らなかったの。なのに兄さんが賭けに敗けたとき、自分を呈して私を守ってくれたのね。このお詫びはいつか必ずするわ。とりあえず、そうね、私たちの婚約の破棄をしてもらいたいの」
オペラの言葉に、ノワールは「は?」と呆気に取られている。オペラが顔を上げたときには、ノワールは口を堅く閉じて、いまの状況を必死に考えているようだった。やがて、「……ああ」と彼は頷く。それを是と取ったオペラが、「ありがとう、ノワール」と言おうと口を開いたが、ノワールはそんなオペラの言葉に言葉を重ねた。「お嬢さん、あのね」
「シアメーセは俺の恋人じゃないんだ。事情はまあ……いろいろあるんだけど、シアメーセじゃなくて、俺の恋人は君なんだよ、お嬢さん?」
ノワールの言葉に、「……えっと」とオペラは小首を傾げている。ノワールは深いため息を吐いた。「困ったお嬢さんだな、本当に」
「まあ、君らしい勘違いだね。早とちりだよ」
「ノワール、無理をしている? 私が婚約破棄されたら困るとか、そういうことなんじゃ……」
オペラが言い募ると、ノワールはきっと眉尻を上げて、腰に手を当てた。「それ以上言うと怒るよ、お嬢さん」
オペラは数秒、ノワールの瞳を見詰めた。ノワールもその視線を受け止めて、視線をそそぎ返している。
どちらかともなくふっと微笑んで、ノワールはオペラを、「お嬢さん」と再び呼んだ。
「昨日は、本当にごめん。お嬢さんが頭を下げることなんて、何一つない。お詫びをしないといけないのは、こちらのほうなんだ」
「ノワールが謝ることなんて、なにもないでしょう?」
オペラの返事に、ノワールは額に手を当てる。「わかってないんだね、まったく」と彼は呟いて、「仕方ないなあ」とでもいうように、オペラに微笑んでみせた。「君にはなにか、贈り物をしたいな。ねえ、お嬢さん、花は好き?」
「あら、それじゃあ、花畑でも見に行きましょう。この先の森に、すごく綺麗な花畑があるのよ」
「それじゃあ手折るのが可哀想だなあ……」
「手折るのが目的ではないもの」
そう言って笑ったオペラに、ノワールは一瞬驚いたように目を見開いた。それからオペラから一瞬だけ目を逸らし、またオペラを見て、満面の笑みを浮かべる。「面白いことを言うね?」
オペラがこっそり、「貴方と見たいだけよ、ノワール」と零した言葉を、ノワールは「うん?」と聞き逃してしまって訊ね返したが、オペラは首を振る。「行きましょう」と彼女が赤い髪を靡かせた。
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