#2-3
「お嬢さん、お願いがあるんだ。俺とデートしてくれない?」と微笑んだノワールに、オペラは突然の来訪と申し出に目が点になっている。「どうしたの? いやに突然ね。良いけれど……時間があるなら舞台を見に行けばよかったのに」というオペラの言葉を、敢えてノワールは聴こえない振りをした。
「我が家においで、お嬢さん」とにっこり綺麗な笑みを見せて、誤魔化してしまう方法は、ノワールがいままでの様々な女性経験で培ったもののひとつだ。
だいたいの女性は、ノワールのこの遣り口で満更でもない顔をするのだが、ノワールの周りの女性たちとオペラの一番の違いは、「ノワールに対して冷静か否か」であった。その一瞬の怪訝な表情から察するに、オペラは「なにか嫌な予感がするわね」と薄っすら考えているようだった。ノワールは「本当に、勘の良いお嬢さん」と心の中で呟く。
馬が二頭しかいないことを理由にして、ノワールはオペラと歩いて自分の屋敷に戻ることにした。「時間をかけたほうがより良いからね」とオペラにささやいて笑った彼に、オペラは鼻を鳴らす。彼女は先ほどからなんとなしに不機嫌で、それは彼女に付き纏っている嫌な予感のせいらしかった。
「なにか企んでいるんでしょう、ノワール?」
オペラがそう訊ねても、ノワールはあちらこちらへの寄り道を止めようとしない。終いには「疲れてはいない? あそこのカフェでお茶でもどう?」といつものデートのようなことまで言い出す始末であった。
そんなノワールの後ろをついてきていたソラが、いよいよ「ノワール様! いい加減にしてください!」と怒りを露わにしたところで、この仕方のない主人もなにかに対して諦めがついたらしい。「まあ、そろそろ帰っているかな」とほくそ笑むノワールに、ソラが「そんなに甘くないですけどね」と口の中でぼそぼそ言う。
「甘くない」などと言えば、ノワールはへそを曲げるだろうことを知っているらしいソラは、その悪魔のような言葉を敢えてノワールの耳に届かない程度の小さな声に留めたのだ。
結局とっぷり時間をかけてやっと屋敷に帰ってきたノワールは、屋敷について一番に、オペラの肩に手を回した。「なあに」とその手を払おうとしたオペラには、「ちょっとだけ我慢してね、お嬢さん」と笑って誤魔化す。
「ノワール! 遅いじゃない!」
どこからききつけてきたのか、ノワールとオペラがそうして玄関内に入る前に、憮然とした顔つきでシアメーセが飛んできた。開ける前に向こうから開いた扉にオペラが驚き体を竦ませる。そんな彼女と、ノワール、そして彼女の肩に置かれたノワールの親し気な手を見たシアメーセが、どんな顔をするのか、ノワールはきちんと予想くらい立てていたのだが、この婦人は彼が思うよりも冷静だった――いや、表情はいつもと変わらないが、オペラに向ける瞳にははっきり氷のような冷たさが宿っている。
ノワールはそんなシアメーセに、努めて普段通りの声音で話しかけた。「シアメーセ、いらっしゃい。まさか突然くるとは思わなかったよ。こちらのお嬢さんはオペラ=サフラン、俺のこいび……」
恋人、と言いかけたノワールの手を、予想外にもオペラがぱんと払う。「ああ、そういうこと」と彼女は得心したように呟いて、自然な動作でシアメーセに微笑みかけた。
「あなたが、ノワールの恋人なのね?」とオペラが言ったことで、ノワールは咄嗟に「お嬢さん!?」とこの男らしからぬ素っ頓狂な声を上げる。
「あら、すごく良い子ね、貴方の恋人」とシアメーセがオペラに口角を上げた。それを傍から見ていたソラが肩を震わせて笑っているのを横目で見ながら、ノワールは心中で、「勘弁してくれ、お嬢さん!」とオペラに八つ当たりすることしかできなかった。
ノワールがオペラをこの屋敷に連れてきた理由は、「シアメーセを断るため」であったのだから、だまして連れてこられたようなオペラが反旗を翻しても、ノワールが怒るような筋合いは全くないどころか、自業自得である。
それでも、ノワールがそこまでするだけの理由もまたあって、シアメーセからのアプローチに、ノワールはほとほと参っていたのだった。
それを、今や義兄となったブルーノに相談した時には、肝心な義兄は「シアメーセなら良いんじゃないか? 俺と変わろうか」としか言わなかったし、その間にもシアメーセからの情熱的な誘いは続いていて、「いい加減にしてほしい」とはっきりはさすがに言えずとも、遠まわしにノワールはシアメーセを断ってきていたのだ。
それに困り果てているところにまた彼女が屋敷にきているときけば、ノワールが音を上げてオペラに助けてもらおうとするのも、その事情を聴けば酌量の余地はあるのだが、それについてなかなか口を割らないのが、ノワールの難点なのである。
「こんなことってある……?」
「ノワール様が悪いですよ、なにもかも」
二人の女性が仲良く帰ったあとの屋敷で、頭を抱え込んでいるノワールに対し、使用人のソラは冷酷だった。「最初からはっきり断っていれば、シアメーセ様もきっとこんなにつきまとわな……あ、いえ」
深い深いため息をついて、「女性を断るのって、こんなに大変だっけ」と人生のどん底のような声を出す主人に、ソラは「嫌味だなあ」と薄っすら思う。ソラから見るシャノワール=シュヴァルツは、ノワールの周りが彼を見るほど完璧超人ではない。
シアメーセは、オペラと帰路に就くときにも、ノワールを振り返って、「『貴方の恋人』が、私のことを『貴方の恋人』だと言っているわよ、ノワール」と言ってほくそ笑んでいたし、それを隣で聴いていたはずの、本当の恋人――と、いうことに世間ではなっている――オペラは本心の分からない顔でにっこり笑って、「私との関係については、ちゃんと説明しておくから、安心してね」とノワールに耳打ちしていた。
勿論ノワールは、後者のオペラには「いや、なにも言わないでくれ。特にシアメーセにはなにも説明しなくていいよ」と懇願してはいる。
しかし、オペラに関しては、言葉の意味をどう取るかが未知数で、彼女なりの考えに沿った場合には、「ノワールにはきっと、なにか言いづらい事情があるのね。でも恋人にはちゃんと説明しないと」とでも思いそうなのが、ますますノワールの悩みの種だった。
それをソラにぼそぼそと相談すれば、この少年から帰ってきたのは、非情な一言だった。「自分でまいた種でしょう」だけだったのである。
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