#1-2

 ノワールは、この町の領主であるシュヴァルツ伯爵家の当主だ。親は早くに亡くなったが、そのぶん有り余る富を遺産に貰い、シュヴァルツ家とこの町をうまく収めるだけの手腕も持ち合わせていた。

 彼は人脈が広く、気心の知れた友人にいつも囲まれて、家柄も良く、眉目秀麗、ともっぱらの評判だった。ここまで揃った美青年とくれば、勿論女性からの羨望も集めている。

 彼の友人は、決まって彼に「お前は良いなあ」と言った。ノワールのほうも、その人柄の良さからか、その世辞を素直に受け止めて笑っていた。

「兄さん、伯爵って、いつもあんな風に笑うのかしら」

 だから、妹のオペラの言葉を、兄のブルーノはてっきり、「ノワールに惚れたのだろう」と思った。ブルーノは血相を変えて、「だめだぞ、オペラ。あいつは良い奴だけど、ちょっと欠点がなさすぎるからな!」とオペラに言い聞かせる。

 オペラはといえば、そんなブルーノにちょっと嫌な顔をして、「なにを言っているの?」と返し、それで兄妹はノワールの見送りのために揃って出てきた玄関先で喧嘩をした。

 喧嘩といってもそれは、ブルーノがノワールの悪いところ――とはいっても、「完璧すぎる」だとか、「あいつを好きな女性は沢山いるんだ」などという、ノワールの欠点にはならないようなことばかりだった――を挙げ連ねて、それをオペラが鼻で笑うような間抜けなもので、通りがかったお隣さんも「サフランの兄妹は、本当に仲がいいわね」なんて笑っていた。それでもブルーノは大真面目だったのだ。

 このままでは妹が……と、勝手に妄想して勝手に落ち込んでいる始末である。

 オペラはといえば、そんなブルーノの考えなどちっとも察しておらず、彼女は彼女で、全く別のことを考えて、なかなか寝付けずにいたのだった。

「兄さん、お願いがあるの」

 オペラが明くる日、ブルーノの私室をノックして、扉越しにそう言い出したとき、妹に甘いブルーノにしては珍しく、「その頼みは聞けない」と、あまりない勘の良さで、オペラが頼みごとの内容を言う前に断ってしまった。オペラが頬を膨らませたのは当然である。「まだきいてもいないでしょう」

「きかなくてもわかる。どうせノワールに会わせろとか、仲を取り持てとかいうんだろう」

 ブルーノが不機嫌に目を細めて言うと、オペラは「仲を取り持てなんて言わないわよ。どうしてそんなに機嫌が悪いの、兄さん」とブルーノに言い募った。「わかった。きくだけきく。言ってみろ」

「伯爵と二人で話してみたいの」

 オペラの頼みごとに、ほらみたことか! とブルーノは鼻から息を吐いた。「だめだ」とブルーノは開いた扉を閉めようとしたが、すかさずオペラが扉の隙間に足を入れる。「オペラ、危ないだろう! 怪我をしてしまう!」とブルーノが慌てて叫んだが、オペラは「ブルーノ、部屋にいれて」とあっさり主導権を握ってしまった。

 こうなると、ブルーノは本当に弱いのだ。

 気が付くと、ブルーノはノワールに電話をしていた。受話器を置いて、彼は深くため息をつく。「はあ……オペラがノワールと結婚、なんてことになったら、どうしよう……」

 ブルーノの一番大きな欠点といえば、妹の可愛がり方の度が過ぎていることだった。

 オペラは小さなころから、兄さん、兄さんと言って、ブルーノの後ろをついて回って、ブルーノのほうも、彼の友達に彼女を甘やかすことを強要するところがあった。

 ブルーノはその思い出を、いまの仲間たちが「異常だ。気味が悪いぞ」というほど執着しているのだ。「自分の後をついてくる可愛いオペラ」が彼の中での妹で、そのオペラが好きな男性を見つけた、しかもそれが自分より数倍勝った相手である、と思うだけで、どうしようもない寂しさが湧いてくるのだった。

 勿論、ブルーノはオペラに対して恋心など全くなく、潔白なのだけれど、その異常なほどの猫かわいがりは、仲間内には「ミスター・シスターコンプレックス」と言われるほどである。

 次の日、ブルーノはノワールに頭を下げた。そのブルーノからある頼みごとをされたノワールは、「あの子が、ブルーノがずっと言ってたお嬢さんなわけだ」とほくそ笑んでいる。

「ミスター・シスコンもいい加減にしておかないと、嫌われてしまうんじゃない?」

「相手がお前というのが嫌なんだよ。ほかの奴だったら喜んで……よろこんで、うん」

 「歯切れが悪いなあ」とノワールはついに腹を抱えた。涙がでるほどに笑ったあと、ノワールは、ブルーノに「頭をあげて。友人にそんなことをされるのは嫌だ」と言って、足を組んだ。「安心して、ブルーノ。俺はああいう初心なお嬢さんはだめなんだ」

 ノワールの言葉に、ブルーノはむっとする。「なんだよ。オペラのどこがだめなんだ」

 ブルーノがノワールに頼んだのは、「オペラをすげなくすること」だったのだが、そのブルーノから出た予想外の返事に、ノワールは「え?」と目を丸くした。「ううん、そうだなあ」と彼がなにも指摘しないままブルーノの質問に答えてやろうとしたのは、彼なりの優しさだろう。

「純白を汚すのは、趣味じゃないんだ」

 「俺の傍にいると、彼女は汚れてしまうよ」とノワールはブルーノに笑う。ブルーノはぱちぱちとまばたきをした。「ノワールは泥だったのか……」

 「うん」とノワールが屈託なく微笑んで、ブルーノも釣られて笑う。

 ノワールの言葉が含まれたものであったことに、ブルーノは帰路についてから気が付いたが、それも食事をして風呂に入った頃にはすっかり忘れていたのだった。

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