Etoile Petit

なづ

第一章 シャノワール

#1-1

 シャノワール=シュヴァルツ、という名前をきけば、町の人々は必ずこう答える。「彼は金持ちで、外見も麗しく、仲間も多くて、恵まれている」のだと。それに異を唱えるものは誰一人おらず、そしてノワール自身も「そうだよ。俺はすごく恵まれているんだ」と微笑むだろう。

◆◆


 生真面目で夢見がちなオペラ=サフランは考えていた。「我が家の前で酔いつぶれている、この男性は一体誰だろう?」と。

 彼女は、サフラン家独特の立派な赤毛をみつあみにした、今年十六の可憐な少女だ。やっと学校から帰宅できたと思ったのに、門前に見知らぬ男が座り込んでいて、彼女は心底驚いていたのだった。

 男の長い黒髪は酔っているためにぼさぼさで、しかし服装はとても高価そうな仕立てのスーツベストだ。俯いているために前髪が顔を覆っており、顔立ちはよく見えないが、覗き込めばこの町で有名な「彼」らしいように見える。

 彼はサフラン家の門扉に背を預け、すっかり寝こけていて、オペラはそんな彼のことを、「見覚えはあるが本人と会ったことはなかったはずだ」と怖々、観察していた。「シュヴァルツ伯爵かしら……」

 町内誌をいつも賑わせている、話題の色男というのが、オペラの中での彼だった。シュヴァルツ伯爵といえば、町一番の金持ちで、好青年であったはず、と彼のことを記憶していたのに――当の本人が、赤の他人の家で、酔いつぶれて眠っているのである。

「まさか、ただのそっくりさん? でも、この服装は……」

 似ているだけの別人なのか、それともオペラが我が家だと思っているこの屋敷が、実はシュヴァルツ城なのか。オペラは自分の屋敷を見上げて、再び考える。赤い煉瓦の大きな屋敷はその頭に三角の緑屋根を乗せていて、その大きさや造りも、どう見てもサフランの屋敷だ。

 サフランといえば、この町の番付に入るくらいの資金はあり、家もわりあい大きいほうではある。

 しかし、それでもシュヴァルツ城とは規模が全く違うのだから、シャノワールが正気であれば間違えることなどまずありえない。

 だが現に、彼はいま、自分の城とサフランの屋敷を間違えているようなのだ。

 あの好青年が? とオペラは屈んで彼の顔をまじまじと覗き込んだ。

 そんなオペラの背後から、「なにをしているんだ?」と馴染みの声がした。オペラは「兄さん」、と自分に声をかけた兄を呼び返す。

 オペラに対して、兄のブルーノは、サフラン商家を継ぐという面目があるが、ただの放蕩息子だ。赤毛は七三に分けられ、外見だけを見ればブルーノも真面目に見えるのだが、彼には、いつも負けるのに賭け事がなにより好きだという、どうしようもない悪癖があった。

 「あれ、ノワールじゃないか」と彼は酔っ払って眠っている男のあだ名を気安くよんで、彼の肩を揺らした。「おい、どうした? お前がこんなところで寝ているなんて」

 ブルーノに揺すぶられ、どうやらシャノワール本人であるらしい青年が重たい瞼を上げる。ぼんやりと周囲を見渡し、そしてやっとブルーノとオペラを見て、シャノワールは首を傾げた。「……あれ、ブルーノ?」

 ブルーノは、眠そうに目をこするシャノワールと同じ目線の高さに屈みこみ、「ここがどこかわかるか?」と彼に問いかけた。シャノワールは「う」と短く唸って痛む頭を押さえる。「どういうこと? なんでブルーノが俺の家に」

「まだ酔っているのか? 昨日そんなに飲ませたっけなあ……」

「ちょっと待って、兄さん。伯爵がこんなになってしまうまで飲ませたの、兄さんなの?」

 信じられない、と眉を思い切り寄せたオペラをちらりと見て、ブルーノは苦笑する。「父さんには内緒だぞ、オペラ……ちょっと仲間内で飲んでたんだよ。あれ、そういえば、お前はノワールと会うのは初めてか?」

 ブルーノの間抜けな問いに、オペラは腰に手を当てる。「そうよ。兄さんが伯爵と友達なことも初耳」

 オペラの表情と声色で、ブルーノも彼女がいささか怒っていることにやっと気が付いたらしい。ブルーノはそそくさとシャノワールの脇に手をいれ、声をかけて立ち上がらせると、「とりあえず、家に入れてやろう。オペラ、扉を開けてくれ」

◆◆


 オペラとブルーノは、ぐったりソファに身を沈めているノワールを見て、ちらりと互いの目を合わせた。

 オペラはノワールのそばに屈みこんで水を渡しているところで、ブルーノはそんなオペラとノワールに鼻から息を吐く。「そんなに飲んだかなあ。俺はなんともないのに」

 ブルーノの疑問に、オペラが見てきたかのように答える。「兄さんのことだから、いつもみたいにはやく抜けたのでしょう」

 オペラの言うことが図星だったらしく、ブルーノは顎を触りながら「ああ。なるほど」と素直に頷いた。ノワールが小さく唸って薄く目を開ける。

 「……ブルーノ、吐きそう」とノワールがゆっくり起き上がると、ブルーノは慌ててノワールの体を支えて介抱する。「どれだけ飲んだんだ? もしかして酒に弱い?」とブルーノが訊ねると、ノワールは首を振って、「楽しすぎたのかな」と弱弱しく呟いた。

 そんな二人を見て、オペラがふと思ったことを言う。「……もしかして、伯爵、なにか嫌なことでもあったの? そんな顔をしているわ」

 オペラの言葉に、ノワールとブルーノがオペラを見た。ノワールはなにを考えているのかわからないような目を一瞬したが、それはすぐに笑みに変わる。「まさか。嫌なことなんてなかったよ」

「そうだぞ、オペラ。昨日、ノワールはものすごく上機嫌だったんだから……本人の言う通り、あまりにも楽しくって、つい飲みすぎただけだろう」

 ノワールとブルーノの返事に、オペラは一瞬口を噤んだ。それから「そう」と、面白くなさそうにノワールに無理やり水を渡す。「ちゃんと水を飲まないと、だめよ」

 そんなオペラに、ノワールは微笑んだ。「ありがとう、お嬢さん」

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