第446話 葵の視点 タフで惨めな女は手が滑りやすい?

 「なんで......なんでぇ」


 自室に泣いている声が響いていた。


 自分でもこんな声が出せるのかって不思議に思えるくらい、咽び泣いていた。


 胸がズキズキして苦しい。


 辛くて、哀しくて、痛くて、切なくて、どうしようもなくって......。


 涙か鼻水かわからない液体で枕はとうに濡れていて、そこに顔を埋める自分が惨めで仕方がなかった。


 「なん、で」


 違和感はあった。


 思い返せば、私と和馬君との距離は縮まっていなかった。ただ私が一方的に距離を縮めていただけに過ぎない。


 私のことなんとも思っていない彼にである。


 「が......ずま、ぐ......どうじで」


 何を間違えたんだろう。


 勘違いはどこで生まれて、今の私を苦しめているんだろう。


 たしかに和馬君の口から『好き』と言われたことはなかった。


 彼はああ見えても真面目なところがあるから、私との結ばれるかわからない恋に、無責任なことを言えなかったのかもしれない。


 それでも......。



 *****


 「あー、うー」


 泣き疲れた。


 泣きすぎて目元が痛い。腫れてる気がする。そしていつの間にか日付は変わっていた。


 カーテンの隙間から射し込む陽の光が部屋の一部を照らしている。起き上がってカーテンを開ける気力も、日を浴びる気力も湧いてこない。


 倦怠感がすごいというかなんというか......。


 「......。」


 これって俗に言う、吹っ切れでは?


 私は、私が思っている以上に、実はかなりタフな女だったのかもしれない。


 「うぅ」


 やっぱ駄目だ。涙出ちゃう......。


 部屋は一晩でかなり荒れていた。あんなに浴衣の試着で迷っていたのに、その浴衣は床にぐしゃぐしゃになって放置されている。掛け布団も床に落ちてた。普段着も散乱している。


 どうやら私は失恋するとバーサーカーになるらしい。


 「はぁ......馬鹿みたい」


 勝手に一人で舞い上がっちゃってさ。馬鹿みたい。


 たとえ彼の言動に問題があったとしても、私は気持ちを伝えるだけで行動に移してなかったし、思い込みが激しかったから起こった不幸な出来事とも言える。


 「......喉乾いた」


 当然だけど、出すもの出したら入れるもの入れないと、人間の身体は不調の一途を辿る。


 今は部屋から一歩も出たくなくても、喉を潤さないと和馬君のことより、水分補給のことを考えそうで辛くなってしまう。


 いや、和馬君のことを考える必要は無いんだけど。



 *****



 「あら、葵姉が寝坊なんて珍しいわね」

 「......。」


 冷蔵庫にある冷えた麦茶を目当てに、リビングに向かった私は、そこで直面した陽菜の顔を見て後悔した。


 時計を見てから自室を後にすればよかった、と。


 壁に掛けられたアナログ式の時計を見れば、いつもの朝食の時間であった。


 父さんは新聞を広げてコーヒーを啜っているけど、他の皆は朝食の支度をしているところだった。陽菜と母さんがキッチンに立ち、和馬君が食器棚から食器を取り出している。


 うわ、和馬君じゃん......。


 朝食を摂る空腹も気力も無い私は、冷たいお茶だけ飲んで戻るつもりだったのに......。


 「おはようございます、葵さん」

 「......おはよ」

 「? 目元赤いですよ」


 こ、この男はこういうところは敏感なんだから......。


 正直、今だけでも顔を合わせたくない人ランキング1位だよ。


 昨日の私とは正反対だよ。


 「別に」

 「元気無いですね? あ、トースターで葵さんの分の食パンも焼きましょうか」

 「い、いや私は......」

 「?」


 和馬君は私の顔を覗き込みながら、呑気に朝食の支度を進めようとしている。


 なんか、すごく腹が立った。


 私の早合点だったことに非があるのはわかるけど、和馬君にも悪いところがあったと思う。


 そうこう考えているうちに、私は和馬君に誘導されるがまま、食卓の席に着いてしまった。


 向かいの席は和馬君である。特に視界に収めたくない彼が目の前に居ると、気まずくて食事がままならない気がした。


 手際よく私の前に並べられた朝食は、新鮮なサラダにふわふわのオムレツ、ベーコン、そしてさっき和馬君が用意してくれたトーストである。


 美味しそうだけど、今の私にとってはどれも喉を通るようなものではない。皆はそんな私を他所に、手を合わせてさっそく食事を始めた。


 私、麦茶だけ飲みに来ただけのに......。


 「三人とも、今日は花火大会に行くんだから早めに仕事切り上げてね」


 開口一番にそう言った父を本当に嫌いになりそうだった。


 この件に一切関わってもいない父さんが、“花火大会”と口にしただけで殺気が芽生えてしまった。


 あなたの娘はその花火大会の件で、さっきまで泣きじゃくっていたんですが。


 「すみません、そうさせていただきます」

 「楽しんでくるわ」


 私の思いなど露知らず、二人はそう返した。


 千沙はここに居ないので、父さんが話しかけても返答が無かったのは私だけである。当然、なんの反応も見せなかった私を不思議に思った面々が私を見つめてきた。


 いや、ただ一人、母さんだけが顔を真っ青にしていた。


 ......そうだった。母さんには色々と話しちゃったんだっけ。今の私の様子から色々と察したのかな。


 もうどうでもいいけど。


 「いやぁ、葵さんの浴衣姿楽しみですねー」


 私が返事をしなかったからか、彼は束の間の静寂を掻き消すように会話を繋げようとした。


 「あんた。彼女わたしがここに居るのよ」

 「きょ、今日くらい別にいいだろ」

 「っ?! よ、良くないわよ!! せめて彼女である私の浴衣姿が楽しみって先に言いなさいよ!!」

 「あぶッ?! フォークをこっちに向けるなよ!!」


 私はトーストにバターを塗って早めに食事を済ませようとした。


 本当は食べたくないし、食べ切れる気もしない。


 でも今日はこれだけ摂れば、もう昼も夜もご飯を食べなくていい気がした。自室で一日が終わるまで過ごしていたかった。


 花火大会が終わるまで、独りで。


 「こら。食事中だぞ、二人とも」

 「すみません」

 「私の浴衣姿を見て抱きしめたいって言ってもさせないから!」


 「高橋ぃ!! てめぇなに口走る気じゃあ!!」

 「や、やっさん食事中! 今食事中だから!!」


 私は無心でトーストにバターを塗り続けた。


 正直、いつも食べている食パン一枚が食べ切れそうになくて億劫だったけど、無理矢理にでもお腹の中に収めようとした。


 「言っとくが手を繋いだらぶっ飛ばすからな!!」

 「え、手を繋ぐことも駄目なん――あ、いや、これはそういう意味じゃ」

 「っ?! あんた繋ぐ気だったの?!」


 「こ、こんのぉ!!」

 「うお?! 箸で目を刺そうとしてきたぞ、このオヤジ!! いい加減、子離れしろッ!!」

 「あ、あんた私以外にも二人居るんだから控えなしゃいよ。うへへ......」


 トーストの上に乗せたバターが薄くならされたことによって、その生地に広く染み込んでいく。早く食べ終えて、ご馳走様したい。


 なんだか、さっきよりも副菜まで食べられる気がしなくなってきた。


 目の前の食事だけに集中したいに......うるさい。


 「ま、まぁ、冗談は置いといて、今年も四人で楽しむんです」

 「......娘たちにはくれぐれも――」

 「わかってますって。純粋に花火を楽しむことにします」

 「変態野郎が純粋なんてけったいなワード使うな」


 集中したいだけなのに......彼の言葉だけが私の耳に届く。届いてしまう。


 『葵さんの浴衣姿が楽しみ』と言ったのは、私を彼女としてではなく、ただの外見みためだけに向けた願望であって、


 『手を繋ごうとした』のは、陽菜をちゃんとそういう目で見ていて、きっと千沙もそうで、でも私とはそうじゃない関係で、


 『純粋に楽しむ』なんて言ったのは、私が抱いていた感情を知らずに、去年の繰り返しをしようとする......停滞だ。


 彼は本当に私のことを――


 「あ、そうだ。葵さん、よければ自分が浴衣の着付けを手伝いま――じょッ?!」


 不意に彼が頓狂な声を上げたことで、私は目を合わせようとしなかった彼の顔に視線を向けてしまった。


 「へ?」


 今度は私の方が間の抜けた声を出してしまった。


 急に静かになった空間に、私のそんな声だけがやけに響く。


 なぜなら彼の顔には――


 「......。」


 ボトッと落ちたそれはトーストである。


 表面にバターを塗られたトーストが、彼の顔に少しの間だけ引っ付いていて、それが重力に従って落ちたのだ。


 なんで彼の顔にトーストが?


 なぜ私の手から、さっきまであったトーストが失くなっているの?


 ......ああ、もうそんなこと考えなくてもわかるじゃん。


 「あ、葵姉......」


 陽菜が怯えながら私の名前を呼んだけど、それを無視して私は彼に告げる。


 「......私、行かないから三人で楽しんできて」


 そう言い残して、再び自室に戻る私は本当に惨めな女である。

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