第3話
(1)
お父様ことローレンス八世の急死から間もなく、新国王に義弟ジョージが即位した。
まだ物心すらつかない幼君の傍らには義母、後見人としてジェームズ様、いえ、ジェームズ・セドリック卿が並んでいた。
彼の躍進を快く思わない者達は多い。お義母様を誑かし、後見人の地位に就いたのでは、との噂も流れている。かくいうわたくしも、その噂については少しだけ、ほんの少しだけ疑う一人。
あの夜、ジェームズ様の身体に染みついた香りの正体――、お義母様が好んで身につける香水と同じ香りだと思い出したから。
でも、確信と共にわたくしは胸の内に仕舞うことにした。それも含めての二人共通の秘密なんだと。
わたくしはと言えば相も変わらず、王宮の外れで静かに暮らしている、筈だった。
そこは窓がひとつもない。小さな通気孔から僅かな月灯りが漏れているだけ。
息苦しいまでの圧迫感を与える石壁に囲まれる中、自分の息遣いと鼠が這い回る音しか聞こえない。
お父様の死からしばらく後、
あの夜、お父様が深酒していた蒸留酒に、蜂蜜を使用した香油の混入が認められた。
香油の飲用自体が身体に毒だというのに。加えて、お父様は蜂蜜が体質に合わないらしく、少量でも口にすると喉が腫れ、激しい咳が出てしまうそうで。酷い時には嘔吐してしまうからと、お父様はご自身の食事や飲み物に蜂蜜の使用は一切禁じていた。ただし、蜂蜜を禁止する理由を知るのは、私達家族やごく一部の延臣のみ。
そう、あの夜の数日前、
お義母様と、彼女を支持する者達に嵌められたのよ。私が、
私が黙秘する一方、ジェームズ様はあの夜に関する証言をつらつらと、それは流暢に述べたらしい。曰く、近頃執心している侍女の元へ通う途中、ブランシュ様の姿を見掛けた。その時、香油の小瓶らしきものを握りしめていた――、と。
虚実が混在しているし、調べさえすれば事実無根だとすぐに証明されるのに。私室から例の小瓶が発見されというだけで、私は収監されてしまった。
弁明や無罪主張の余地は少なからずあったわ。むしろ、お義母様の対立勢力者達の方が、私自身よりも声高に無罪を叫んでいた。でも、彼らには申し訳ないけれど、私は真実を話せずにいた。厳密に言えば、話したくなかったの。
ジェームズ様も、あの夜、私と交わした会話、私を抱きしめたことは黙っているみたい。だから、私も死んだ貝のように固く口を閉ざす。香油を手に入れた経緯も同様に。
あの夜の、ほんのひとときの幸せを、誰にも知られたくない。
例え、全てが偽りだったとしても。偽りだからこそ、せめて私の胸の中だけでも真実にしておきたかった。
偽りも思い込み次第で美しい真実に変わる。
美しい真実を秘めたまま、断頭台に散るのもまた、
愚かにも程があると、笑いたければ笑っていいのよ??
力なく石壁にもたれ、粗末な椅子に座っていると足音が響いてきた。
徐々に近づいてくる気配、浮かんでくる影の大きさから男性だと判断できる。処刑の日時でも告げにきたのかしら。
諦めの境地も手伝い、ぼんやりと真っ暗な虚空を見つめる。足音の主は鉄格子のすぐ目の前まで来たみたいだけど、
「明日明朝、御身を釈放致します」
事務的に告げられた宣告は予想を裏切るものだった、けど。
依然、
「前国王暗殺の首謀者が判明し、貴女の無実が証明されました」
「そう」
無実も何も、と、思わず、微苦笑する。
ほぼため息に近い苦笑いに気づいているのか、いないのか。気づいていながら、知らぬ振りをしているのか。
無反応な私に構わず、牢外に立つ人物は更に続ける。
「暗殺の真の首謀者は、キャサリン太后とジェームズ・セドリック卿でした。二人は前国王陛下がご存命の頃より密通しており……」
密かに勘づいていた通りの結果。驚きや怒りよりも納得の方が大きかった。
やはり、あの香りはお義母様の……。
「セドリック卿と懇意にしていたという侍女が、ずっと太后と彼との関係を疑っていたようで――」
「……大方、侍女と卿との間で何かしら問題が起きたのでしょう。腹いせも兼ねて、彼を窮地に陥らせたかったのかもしれませんね」
顔も名前も知らない侍女に、僅かばかりの同情、憐憫、そして、侮蔑を覚える。
ジェームズ様は花から花へ飛び移ろう蝶のような方。彼の愛(らしき感情)を独占しようと思うこと自体が烏滸がましい。
「卿は華やかな方ゆえ女性問題を抱えがちですが……。まさか、国を揺るがす事態を引き起こすとは」
「お二人はどうなるのですか」
「太后とセドリック卿は姦通罪による処刑は免れないでしょう……、と言いたいところですが」
ここへきて、初めてその人物は言い淀み、短い沈黙が落ちる。
肝心なところで、と、少しばかり苛立ち、私は初めて彼に向き直った。
目の端に映った大柄な影にジェームズ様を思い出し、胸が高鳴ったのもほんの束の間。
背丈と年齢は同じくらい。でも、髪の色も長さも違う。
癖のある、肩までの金髪じゃない。この方の髪は背中まで届く、真っ直ぐなアッシュグレイ。顔立ちも精悍で男性的だし、服装も違う。
最初から別人だと分かり切っているのに。身勝手にも私は酷く落胆した。
「……セドリック卿は、逮捕寸前に国外逃亡しました」
つまり、ジェームズ様はどこかで生きてらっしゃるのね。
非常に遺憾です、と、口惜しさを滲ませるアッシュグレイの紳士を尻目に、不謹慎を承知で私は、心の底から安堵していた。
「現国王陛下は退位せざるを得ないでしょう。しかしながら、王位継承できる男子が現時点で彼以外に存在しません。よって、ブランシュ王女殿下。貴女には次期国王に即位して頂きたいのです」
「王女に王位継承権などありませんが」
「貴女が即位できるようにと、すでに議会の承認を得ております」
「随分と仕事が早いのね」
「貴女がいるべき場所は幽閉塔でも王宮の端でもありません」
「じゃあ、わたくしの居場所は何処だというの」
挑むような目でアッシュグレイの紳士を見上げれば。
同じくらい強い視線を持ってして、彼は答えた。
「王座ですよ」
(2)
赤い月が夜の海を静かに照らしている。
穏やかに揺れる波に浮かぶ船上。甲板の階下からは耳慣れない異国語がぼそぼそ聞こえてくる。
遥か彼方遠くに消えた祖国がある方向を、俺はいつまでも見つめていた。
今頃、反キャサリン太后一派がブランシュを女王に擁立する準備を始めただろう。
「お待ちしていますよ、女王陛下」
きっと彼女は、必ずや俺を奪い返しにくる。
どんな手を使ってでも。
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