第2話

 わたくしは今、絶望に打ちひしがれていた。


 無実の罪を着せられたことでも、衛兵達に囲まれ、拘束されていることでもない。私を遠巻きに眺める貴方の姿を認めてしまったから。

 微かに片端を吊り上げた唇に、貴方の本心を悟ってしまったから。










(1)


 広い寝台の上でひとり、わたくしは眠れない夜を過ごしていた。


 何十回目ともしれない寝返りをごろごろと打つ。右へ左へ転がる度に眠気は下りてくるどころか、逆に目は冴えていくばかり。

 寝具から伸ばした手に握る小瓶を頭上に翳してみる。これもまた何十回目となるかしら。深紫の色味に精緻な硝子製。硝子自体が希少で高価なのに。むくり、起き上がって瓶のコルクをそぅっと引き抜く。少し埃っぽい寝具の臭いに甘い蜂蜜の香りが重なった。


 どうでもいいことだけど、わたくしの寝具が埃っぽいのはね、使用人たちが部屋の掃除を怠っているから。掃除だけじゃない、わたくしの身の回りの世話自体を怠りがち。

 この部屋も、間取りは広いけれど、置いてある家具調度品はお母様が健在かつ王妃だった頃と比べて、数段質が落ちてるわ。

 お義母様の差し金なのか、お義母様の顔色を窺っているのか、もしくは両方なのかは分からない。

 ひとつ言えるとすれば、お父様好みの金髪、白磁の肌を持つ美女という点は同じなのに、楚々と控えめだったお母様と違い、お義母様は気性の激しいお方ということ。でないと、お母様を蹴落として王妃の座に就く真似なんてしないもの。


 あぁ、いやだ。美しいけれどキツいお顔立ち、賢しげな物言いを思い出すだけでどっと疲れが押し寄せてしまう。

 この間だってそう。お洗濯をジェームズ様に交代していただいて、自室に戻ったのとほぼ同時に歴史の先生がお越しになって。そこでハッと気付いたのよ。お洗濯を命じたのは授業に遅れる、もしくは間に合わないようにするためだったのね、って。


 お義母様は、わたくしが勉学に励むのをよく思っていない節がある。王位継承権のない王女に必要以上の知識など不要、と、お父様に訴えているのも知っている。

 この国の王位継承権は王妃腹の王子のみなのにね。少しでもご自分の地位を脅かす可能性の芽を摘みたいのよ。


 ちなみに、王女はもちろん、王妃以外の女性――、王の愛妾が男児を産んでも継承権は得られない。

 よくて国王の養子扱い、もしも愛人である生母への寵が薄れれば、強制的にどこかの貴族ヘと養子に出されてしまう。その最も足る例が――、ジェームズ様なの。

 彼は先代国王、若くして崩御されたお父様のお兄様、つまり伯父様が愛人に生ませた男子で。ジェームズ様のお母様が産後まもなくお亡くなりになって、セドリック侯爵家へ養子に出されたのよ。


 王位継承権を持たない上に、父と義母から死んだ母共々疎まれるわたくし。

 王妃腹でないがために継承権もなく、実の両親の愛を知らないジェームズ様。


 おこがましいのは承知の上で、ジェームズ様とわたくしは、きっと似たような孤独を抱えて生きてきた気がする。どこか似た者同士なわたくし達。彼は、わたくしを女性としての愛情ではなくある種の仲間意識を抱いているから、気にかけてくれるのでしょう。


 でも、これはあくまでもわたくしの希望的観測。現実は、そうね――、僅かながら、わたくしに利用する価値を見出しているから、かも。

 継承権のない王女に家庭教師など不要と、言い出したお義母様の説得をお父様にするよう助言したのもジェームズ様。代わりに彼と交わした『約束』は勉学にしっかり打ち込むこと。


『現王妃様腹の王太子殿下はお身体が弱い方。万が一の可能性ですが、女王を擁立する法改正が行われるかもしれませんからね』


 それは有り得ないんじゃないかしら。いつだったか、ジェームズ様にそう耳打ちされた時、わたくしはついつい笑ってしまった。

 わたくしが勉学に励むのは知識を吸収するのが楽しいだけ。周りに都合良く搾取されるためじゃない。

 誰かを害すのも害されるのもイヤ。書庫に一人籠るように静かに生きていたいの。

 どうせ失脚した元王妃の娘など誰も娶りたがらない。お義母様の不興を買うのが目に見えているしね。それでも娶ろうとするなら、きっとお義母様の対立勢力の方たちでしょうね。

 そうなる前に、わたくしは尼寺修道院へ入るつもり。本当は一刻も早くそうすべき、なんだけど――


 ジェームズ様と語らえる時間が失われる、と思うと、わたくしの心は波濤のように揺らいでしまう。何度もつけた筈の決心が、急速に鈍っていく。






「はぁ……、お水でも頂いてこようかしら」


 眠れない夜は残酷。目を逸らしたい問題ばかりを思い出させるから。お水を飲んで少し頭を冷やさなきゃね。

 一段と冷たい夜気に身を震わせ、寝台を抜け出す。本来なら近くの部屋にいる筈の侍女を呼びつけ、水差しを持ってきてもらうのだけど。生憎、わたくしには夜中の急な呼び出しに応えてくれる侍女など仕えていない。薄い寝間着の上にローブを羽織る。

 お義母様に家事を命じられる数少ない利点は、広大な王宮内のどこに何の部屋があるのか把握できること。確か、厨房は宮殿東側の地下だった気がする。物音一つない真夜中の静寂に臆しながら、扉を開く。

 天井や壁に並んだ燭台の朧な光(灯りを点す程度の仕事はしている模様)に、彫刻や天井画の影が浮かび上がる……のは、いいけども。ぶ、不気味過ぎる……。


 こういう時に限って、宮廷でまことしやかに囁かれる幽霊話が脳裏を過ぎる。

 寵が薄れて追い出された歴代王の愛人たちの霊、幽閉塔に監禁された後処刑された逆臣の霊、殉死した首のない騎士が、夜な夜な王宮の廊下を彷徨っている……っていう。


 臆する気持ちは益々膨らむばかり。なのに、恐怖に反して急激に喉が渇いていく。

 はしたないと思いながら、閉めかけた扉をわざと大きな音で再び開け放つ。小走りに近い歩調で、なるべく下を見て廊下を進む。

 さすがに絨毯に編まれた花や動物にまでは恐怖を感じない。深紅の地色が血を想起させないでもないけど、綺麗な赤なの!と胸中で自分に言い聞かせる。

 ちょっと首が痛い気がするのも無視して、廊下の角を何度目かに曲がった時だった。


「きゃっ!」


 下ばかり見ていたせいで人の気配に全く気づけなかった。感じたくないから下を向いていたんだから仕方ないでしょう??

 ぶつかるのは避けられたものの、代わりに身体の均衡を崩しかけ――、素早く伸びてきた長い腕に受け止められた。こんな夜更けに一体、誰、なの??

 ま、まさか、幽霊……、にしては、受け止めてくれた腕は温かい。

 僅かな光が照らした鮮やかな衣裳、袖のフリルの種類、何より見上げんばかりの長身から、相手が誰なのかすぐに判明した。


「夜更けにどうなさったのですか、ブランシュ様」

「眠れなくて……、お水を飲みに、厨房へ……。そ、それよりも、ジェームズ様こそ、なぜこんな時間に王宮に??」


『水差しをお持ちしましょう』なんて言わせないのが半分、もう半分は本当に知りたくて被せ気味に問う。ジェームズ様は一瞬だけ思案げに首を傾げると蠱惑的に微笑み、蕩けそうな甘い声で囁いてきた。


「ブランシュ様にお会いしたかったのです」


 暗闇も手伝い、いっそ悪魔的な美しさを湛えているのに、お声も表情もどことなく悲しげで。

 何があったのですか、と問い質そうとして――、できなかった。縋るように抱きすくめられて、わたくしの頭の中は真っ白に。


「非礼は承知の上です。どうか、少しの間だけお許しください」


 羞恥よりも驚きの方が遥かに勝り、広い腕の中、こくこくと小刻みに頷く以外成す術がなかった。

 でも、一瞬だけ鼻先を掠めた香りに、少しだけ、ほんの少しだけ違和感と疑念を抱いた瞬間、茫洋とした頭のほんの片隅で冷静さが目覚めた。だからこそ、次に続く言葉に引っ掛かった。




『私の手が届く、今の内だけ』











 当然ながら、昨夜はほとんど眠れなかった。お蔭で、朝食の時間が過ぎてもわたくしは寝台で過ごす羽目に……、ん……??


 朝食の時間が過ぎても、誰も起こしに、こない。起床と朝食の準備くらいは怠っていなかったのに。よもやお義母様の嫌がらせはここまできたのか。不安と怒りで瞬時に、完全に覚醒する。

 がばりと寝具を跳ね飛ばし、起き上がると、廊下を慌ただしく駆ける複数の足音が響いてきた。


「ブランシュ様!」

「朝から何事なの??」

「王が……、父君が、」

「なに、なんなの……??」

「昨夜――」




 昨夜未明、お父様ことローレンス八世は自室で深酒し、酔って嘔吐した。


 その時、吐瀉物を喉に詰まらせて――



 この訃報によって、わたくしの静かな日々は終わりを告げることになった。










(2)


 腕の中で、ブランシュの体温が急激に上がり、鼓動が速まっていく。

 薄い寝間着越しに分かる、まだ未成熟な身体をそっと押し戻せば、ふらふらと自ら数歩引き下がった。

 消え入りそうな声でおやすみなさい、と告げ、覚束ない足取りで去っていく背中、揺れる赤い髪を、見えなくなるまで静かに見送っていると――


「まさか、ブランシュまで起きていたなんて。でも、お蔭で証拠を捏造しやすくなったわね」


 いつの間にか、俺の背後に黒いローブを纏う女が佇んでいた。頭に被るフードから覗く白金の髪、肌の白さは女神みたいだが、美しい顔に浮かぶ表情は冷淡そのもの。


「どうやってここに来たか、って??死んだ年増の石女ブランシュの母の侍女だった頃に見つけた隠し通路を使ったのよ。私以外の者は通路の存在すら知らないみたいだし」


 表情の冷たさは変わらずとも、女はどことなく上機嫌に見えた。この様子だと、先程の俺とブランシュの姿は見られていなさそうだ。


「随分とご機嫌みたいですね、王妃殿下。そのご様子ですと」

「えぇ、うまくいったわ」


 女――、王妃の唇がゆるりと弧を描く。


 その手に握られていたのは、俺がブランシュにくれてやった香油の小瓶と同じ物だった。

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