親愛なる私のリバティーン

青月クロエ

第1話 

 わたくしは今、かつてない程に激しく心が打ち震えていた。

 玉座におさまる私の面前に、貴方が跪いているのだから。

 項垂れた頭、額にかかる黒髪は白髪混じり。纏う衣装も随分と地味になったのね。


「面を上げよ、ジェームズ・セドリック」


 内心の高揚とは裏腹に冷厳たる態度で命じる。

 あぁ、お年を召しても尚、凄艶さはちっともお変わりになってない。


 やっと、やっと、帰ってきてくれたのね。

 私の――








(1)


 突風に飛ばされたのは雪だけじゃない。わたくしの白い頭巾までもが空高く舞い上がっていった。

 手を伸ばしてみても時すでに遅し。真新しい頭巾は雪と共に、広大な城を囲む深い樹々へと流され、吸い込まれていく。あとに残されたのは、灰色の空に手を伸ばしたまま固まる、間抜けなわたくし、ただひとり。


「困ったわね……」


 頭巾が飛んでいった方向を睨み上げる。

 わたくしの立場上、女中頭は何も言わない、言えない。その代わり、お義母様からはきっとお叱りを受けるんだろうな。でも、森の中へ探しに行くには時間がいくらあっても足りない。


 頭巾の捜索は諦め、左脇に抱えたシーツ数枚、足元に転がる大きめの平たい洗濯桶を見下ろす。

 井戸端に立ち、手桶をつるに引っかけ水を汲む。この作業だけですでに指先がじんじん痺れてくる。


『ここ数日急激に寒くなったせいで、風邪や体調不良で倒れるメイド達が後を絶たない。家事に手慣れた貴女が手伝ってやりなさい』


 家事に手馴れてしまったのは誰のせいだと思ってるのかしら。

 本当のお母様が生きていれば、わたくしが彼女お義母様に命じる方だったのに。


 いくらか勢いを失った風が、ほつれた纏め髪を更に乱す。ちゃんと纏めておいてよかった。

 お母様やお義母様みたいに癖のない白金の髪ならともかく、わたくしの髪は真っ赤な巻毛。パッとしない薄い顔立ちだし、華やかさに欠けてる自覚はある。王族の端くれとは思えない影の薄さも。

 せめて王子に生まれていれば良かった。そう思うのは、何も冴えない容姿のせいだけじゃない。


「うぅ、つめたぁい……」


 水の冷たさが足先から心臓に向かって容赦なく突き刺してくる。水に浸したシーツを踏みしめるごとにそれは痛みに変わっていく。たくしあげたスカートの裾から覗く脚にも跳ねた冷水がかかり、荒涼とした風が寒気を煽る。

 頬にかかるほつれ毛もゾッとする程冷たく、思わず身震いする。動かすごとに感覚を失っていく足を叱咤する。


「お手伝いしましょうか、ブランシュ様」

「ひゃっ!」


 そろそろ止めてもいいかしら、と思い始めた頃、いきなり後ろから話しかけられた。

 飛び上がりそうになるわたくしの様子など気にせず、見上げんばかりの大きな影が足音と共に近づいてくる。麝香に、花や果実を含む様々な香水の香りが鼻先を擽る。


「セドリック卿」

「私のことはジェームズとお呼び下さい、と何度も申し上げたでしょう??」


 6フィートを優に超える長身を屈ませ、セドリック卿、いえ、ジェームズ様は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。子供っぽい仕草が妙に様になるのは、肩ら辺まで無造作に伸ばした癖の強い金髪、朱赤や紫に金糸をあしらった派手なシャウペ袖なしの長いベストが似合う若々しさゆえ。わたくしの倍以上――、確か齢三十二、というのが、到底信じられない。

 大造りで彫の深い顔立ちは宮廷きっての美男子だと貴婦人や侍女たちが騒いでいるし、実際に未だ独身で、数多の女性と浮名を流しているみたいだし……。


「ブランシュ様??」


 スカートの裾を持ち上げたまま、しばし固まっていたわたくしを心配してか、ジェームズ様の秀麗な顔が間近に迫った。はしたなくも膝から下が剥き出しなのを思い出し、慌てて裾を下ろす。

 羞恥心に支配された頭では裾が水に浸かってしまうなんて、すっかり失念していた。うぅ、やってしまった……、つめたい……。こんな醜態をジェームズ様の前で晒してしまうとは不覚――、ん??


 落ち込む間もなく、わたくしはまた声を張り上げる事態に見舞われた。


 ジェームズ様が!フリルシャツの腕を捲って!洗濯桶に突っ込むなんて!!しかも、お膝を冷えた地面につけてるし!!


「だ、駄目です!ジェームズ様ともあろう御方が……!ホーズキュロットズボンネーザーストック靴下も汚れてしまいます!仮にも」

「ブランシュ様のお手もおみ足も痛々しい程に真っ赤ではありませんか。お気の毒に……。指が冷えすぎて最早痛みの感覚もないのでは??どのような経緯で下働きの仕事をされているのかは分かりませんが、私から言わせれば、ローレンス八世の第一王女ともあろう御方がすべきことでないと思うのです」

「……だって、」

「どなたが命じたのです??陛下では」

「お父様とは少なくとも三か月はお会いしておりません」


 どうかこれ以上は訊かないで。

 わたくしを使用人扱いする人なんて一人しかいないじゃない。

 知ってどうするつもりなの。お父様に注進するおつもり??駄目よ。お父様がお義母様を叱責したとしても、あとで仕返しされるのが目に見えているもの。


 わたくしを真に気にかけてくださるなら、どうか――


「貴女の心中、深くお察し致します。それはもう、痛い程に」


 他の者が口にしたのなら、心にもないことを、と、白けるだけなのに。少し低めの柔らかな声は耳に心地よく、心の奥底にすとんと落ちていく。

 そして、何もかも見透かし、味方の振りをしているようで、わたくしではなく身の内にある深淵に語りかけているような、翳りある表情。

 ご自分ではお気付きになっていないのか。もしくは、気づいていて、わざとわたくし(だけじゃなく、他の女性も)の関心を引こうとしているのか。


「さぁ、洗濯桶から出ていただけますか??プリンセス・ブランシュ」


 唇の片端を持ち上げ、少し斜め気味の上目遣いで見つめてくるなんて狡い。ゾクゾクしてしまう。

 大人の女性にするみたいに手を差し出されたら、手を伸ばすしかないじゃない。


 背丈と同じくわたくしの倍以上大きな掌、長い指は男性的なのに、ハッとする程白く、艶めかしく。女性的な繊細さと神経質さが感じられた。

 その手が、恭しい手つきでわたくしの手に触れ――、んん??

 指先に触れた固いモノを握れば、親指程度の大きさの――、小瓶、かしら??


「この香油は本来、髪の手入れに使うものですが、手荒れにも効果があるそうです。是非ともお使いください。蜂蜜も配合されていますから保湿にもなります」

「えぇっ、そんな高価な物は頂けません!」

「今日はこれをお渡しするために貴女を探しておりました。貴女もご存知かと思いますが、私は髪を染めています。髪を染めると、なぜか私の髪は鳥の巣みたいに髪が酷い有様になるので、この香油が手放せません」


 鳥の巣頭なジェームズ様を想像したら、可笑しくて可笑しくて。

 つい噴きだしてしまい、慌てて口元を抑える。笑った理由を察しつつ、特に気分を害した様子がなくてホッとする。


「でしたら、尚更」

「言い換えるなら、この香油さえあれば、髪が多少うねる程度で収まります。それ程まで高い効果を示す香油ですし、手荒れにお悩みのブランシュ様にも差し上げようと思った次第です。以前お会いした時、お手が少し荒れているようなのが少し気になっていまして」


 う、うわああぁぁ、殿方に、しかもジェームズ様に手荒れを指摘されるなんて!女性として不覚すぎる……!うぅぅ……。


「受け取っていただけますね??」

「……はい」

「それから……、やはり洗濯物は私が干しますから、ブランシュ様は早く自室にお戻りください」

「でも」

「私との『約束』、お忘れですか??」

「忘れてなどおりません!」


 むしろ、間に合わなかったらどうしよう、と焦っていたくらい……って、もしかして、お義母様は邪魔、したかった、のかしら……。くっ、やはり腹黒ね……。


 沸々と込み上げる怒りを抑えつけ、洗濯桶をジェームズ様に渋々突き出す。


「宜しい。ブランシュ様はいい子ですね」


 ジェームズ様のお顔全体がくしゃりと笑み崩れる。次いで、大きな掌がわたくしの頭を優しく撫でてくる。子供扱いとはいえ、温かな掌はわたくしを充分なまでに安心させてくれた。









(2)


 若く美しい侍女に王妃の座を奪われ、失意の果て、はかなくなった前王妃の一人娘。

 元侍女の現王妃が世継ぎの王子を産んだため、死んだ前王妃同様、日陰の身と化した王女。


 雲間から光が差すのを遠目に立ち上がれば、洗濯桶を抱えたブランシュが俺を見上げてくる。

 エメラルドを思わせる深い緑の双眸。彼女の、目立った特徴のない顔立ちにおいて、唯一目を引く鮮やかな緑。口に出さずとも美しい緑の瞳は饒舌に語りかけてくる。


『貴方とわたくしは似た者同士。貴方とわたくしが抱える孤独は同じもの』


 たかが十六の小娘がわかったような顔をして。

 募る苛立ちの一方で、あの真摯な瞳に――、否、何を血迷っているのかと、頭を振るう。

 ブランシュを甘やかすのも計画の一端に過ぎないのに。


「愚かにも程がある」


 雪はいつしかやんでいた。

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