第113話 刹那
それは、レイジが知る由もない現象だった。
例えば重いものを受け止めたとき踏ん張るみたいに、レイジの身体は溢れ出す力の奔流に押しつぶされないよう、最適な動作をとる。
それは奇しくも、いや、当然と言うべきか。
ゲーム『ヴァリアブレイド』の中で主人公として生きるレイジの特殊強化状態——レイジングバーストへの移行時と全く同じ動作だった。
(こ、れは……!)
対し、レイジは二種類の驚愕を浮かべた。
一つはレイジングバーストによって自身に生まれた力が想像よりも遥かに大きかったこと。
そしてもう一つは、その力のあまりの大きさに、すぐに行動を起こせなかったことだ。
レイジの身体は明らかに異常な、真紅のオーラを放っている。
それは、セシルを捕らえるハーストに危機感を抱かせるには十分なものだった。
「て、テメェ!?」
何かは分からない。
しかし、今、レイジは何かをしている。
その目が放つ殺気が、彼の身体から吹き出す真紅の圧が、ハーストの中の臆病さをレイジの意に反し容赦なく刺激した。
死ぬ。殺される。
その直感は、あまりに単純に、短絡的に、情動のままにハーストの身体を動かした。
「うあああああっ!!?」
それが彼にできるせめてもの抵抗だった。
セシルを掴む手に力を込め、ナイフを彼女に向かって振り下ろすのが。
「ねえちゃんッッッ!!!」
叫ぶと同時に、レイジの動きを封じる硬直が解けた。
瞬間、彼は地面を強く蹴る。その衝撃で爆音が響き、地面が抉れた。
ハーストとの距離はもう無い。
レイジングバーストによって極限強化された今のレイジなら、まばたきほどの一瞬で届く。
それでも——ハーストの方が速かった。
地面が爆発した音も、レイジが凄まじい勢いで迫ってくることも、普段のハーストなら怯み、僅かでも動きを鈍らせただろう。
しかし、今のハーストは——目を血走らせ、呼吸を荒くし、衝動に支配された彼には、そんな外の情報は入ってきていなかった。
迫り来る死の恐怖に、彼のやわな精神はすでに飛んでいたのだ。
(間に合わない——)
まるで時が止まったかのようにレイジの周りの時間がゆっくりになる。
彼の身体はそんな世界で機敏に動く。が、ナイフはゆっくりでも確実に、彼よりも早くセシルへと届くのは明らかだった。
まるで、運命がそれを求めるかのように、無情に、セシルの命が散らされようとしていた——その時、
——いいや。
聞こえるはずのない、声がした気がした。
——そうはさせない。
それは思わず鳥肌が立つような冷たい、殺気を孕んだ声だった。
どこかで聞いたことがある声にも思えたが、しかし、どこか悲しさを感じさせる響きをレイジは知らなかった。
(気のせい……? なっ――!?)
感覚が研ぎ澄まされ、すべてがスローになった世界で、当たり前のように声が聞こえるはずがない。
そう直感的に結論を出したレイジだが、直後、目に映った変化に心臓を跳ねさせた。
ハーストの振り下ろすナイフが、いや、彼の腕がピタリと止まっていた。セシルへと届く、ほんの僅か前で。
(なん、だ……!?)
じんわり、ゆっくりとハーストの表情が苦痛に変わっていく。
それを捉えながらも、レイジが視界の中心に捉えていたのはハーストの腕――そこには不自然な、まるで何かに締め付けられているような痕があった。
(手の形……あれは、右手……?)
感覚が鋭くなっているからこそ、レイジにはそれが分かる。
ハーストの手が、目には見えない右手によって掴まれているのだと。
ガラスのような透明な何かではない。
もっと実体のない、魔力に似た得体の知れない右手がハーストの腕を止めている。
それは、先ほどレイジが聞いた声に似た、禍々しい殺気を感じさせる。
(でも……!)
無差別に放たれる殺気に肌が冷たくなるのを感じながらも、レイジは足を緩めなかった。
得体が知れなくても、思わず背を向け逃げ出したくなるほどの恐怖を感じても、レイジにはそれ以上に成さねばならないことがある。
そして、それを思えば、この不可解な現象は紛れもなく追い風となって彼の背中を押していた。
「うぅあああああああっ!!!」
勢いのまま振り抜いた拳が、届く。
凶刃がセシルを傷つけるより先に、レイジングバーストによって超強化された殴打が、ハーストの顔面にめり込み、数メートル先へと吹っ飛ばした。
「はぁ、はぁ……や、やった……!? ね、ねえちゃん!!」
スローの世界が崩れ、時間が元に戻る。
真紅のオーラが消え去ると同時に湧き上がった、凄まじい疲労感に包まれながらも、レイジはぐったりとしたセシルを抱きかかえた。
「レイジ……」
ぐったりとしながらも、セシルは確かに弟の名前を呼ぶ。
首を絞められていたせいで酸欠気味ではあるものの、傷は負っていない。
当然、死の危険性は皆無だ。
「良かった……良かった、本当に……!」
レイジはぼろぼろと涙を流しながら、姉を強く抱きしめた。
一時は失ってしまうかとさえ思った彼女の無事を、温かな体温越しに感じながら、ただただ安堵する。
姉を抱いて泣くレイジ――その姿は、確かに運命で定められたものだった。
しかし、意味は全く異なる。
なぜなら、その運命という筋書きの中では、彼と同じように涙を流し、抱きしめ返すセシルの姿は無かったのだから。
本来この世界が彼に歩ませようとしていた筋書きがどのようなものだったのか、そして、今彼らがいる現実がどれほどのものなのか――2人には知る由も無い。
その意味を知る者は、この世界にただ1人しか存在しない。
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