第75話 平穏を切り裂く悪意
馬は走る。軽やかに走る。
実際、背中に人は乗せているがその重量は無いし、実に気持ちがいいだろう。
そして、それは当然乗っている俺達もだ。
尻の痛みを気にせず、ただ風を受けて走れる感覚は気持ちが良い以外の何物でもない。
馬に乗っている分視線が高いというのも、アトラクション感があって面白いし。
「ジル、どうして先ほどから黙っているんですか?」
「無粋だなお姫様。俺は今風を感じているんだ。むしろ風と一体になっていると言ってもいい……」
「わけわかんないです」
俺を背もたれにしつつ、セラは深く溜め息を吐く。
もしかしたらもう飽き始めているのかもしれない。釣りとか苦手なタイプだろうか。
「もしも退屈なら寝ていてもいいぞ。手綱は俺がしっかり握っているからな」
「それは……勿体ない気もします。せっかくジルと一緒にいられるのに」
拗ねたようなその言葉はなんというか意味深で、これはエリックから“そういう関係”と疑われても仕方が無いように思える。
でも、そんなことより今はこのお姫様のご機嫌をどう宥めるかだ。俺は彼女の護衛ではあるが、ご機嫌取りではない。彼女を楽しませる義務は無いのだけれど……
「ジル」
「ん、エリック?」
「前方が騒がしい」
エリックの言葉に前方を注視し耳を傾けると――なるほど、言葉にはし難いが、確かに何か起きていそうな感じがする。
俺はあくまで気配から察知した、曖昧な情報でしかそれを感じれていないのだが、エリックはもっと明確に理解しているように思えた。
危機察知能力、洞察力……そういった情報を得る力は彼の方が上ということか。
「盗賊みたいだ。この街道は商人がよく使うと言われているし、不運にも護衛をつけていなかったか、その護衛を上回る戦力の盗賊団に襲われたのかも」
「そこまで分かるのか」
「耳はいいからね」
正直、風に乗って僅かに声が聞こえる程度でしか無いのだけれど、だからといってそれだけでは彼の確信めいた言葉を否定するには弱かった。
「ジル、助けないと」
そして、王女殿下はそう答えを出していた。エリック全乗っかりだ。
「……ああ」
俺は手綱を強く叩いた。痛みに反応し馬が加速する。
気付いてしまった以上無視は出来ない。それに、俺もいい加減いいところを見せておかないといけないからな。このまま2人におんぶにだっこでは面目丸つぶれというものだ。
◆◆◆
ジル達がそんな会話を交わしていた頃、彼らの行く先で正しくエリックが察知した通り、一つの馬車が盗賊団の襲撃を受けていた。
「よぉし、金目のもん全部かっぱらえ! 嬢ちゃん、アンタも迂闊だったな。護衛も付けずにダラダラここを歩いているなんてよぉ。襲ってくれって言っているようなもんだぜ」
もう何日も、いや何か月も身を清めていないであろう大男の放つ悪臭に、その少女は思わず顔をしかめた。
大男とは対照的な、身なりの良い少女だ。着ている服も、髪や肌の艶も、全てが行き届いている彼女のことは、10人が10人貴族だと判断するだろう。当然、この大男もそうだ。
「貴族の嬢ちゃんは高値で売れる。ククク、当然裏ルートを使った奴隷商を経由にだけどなぁ」
「……っ!」
「ところで嬢ちゃん、アンタは処女かい?」
男の下卑た質問に、少女は思わず顔を赤く染める。羞恥と怒りで。
「この、下品な……!」
「っと、立場を弁えろよ?」
男は少女の髪を雑に掴み上げる。その痛みに少女は悲鳴を漏らす。
「世の中にはよぉ、手足を切り落とした状態の女を飼うことを趣味にしているような野蛮な奴だっているんだぜぇ? 同じ奴隷……ククク、慰み者になるにしたって、五体満足の方が嬉しいだろぉ?」
「ひっ……」
これ見よがしにナイフをちらつかす男に、少女の気丈さは一瞬で崩されてしまった。
男の目は昏く濁っていたが、それ故に言っていることにも信ぴょう性がある。自分の手足がバラバラにされる姿を想像してしまった時点で彼女は折れてしまっていた。
「ククク、そそるねぇ。アンタが商品じゃあなかったら、お楽しみとしゃれこんでいたんだが」
男はわざわざ大声で、彼の仲間たちにも聞こえるように言う。
それに同調し、他の盗賊たち、大男の部下達も大声で笑った。
男の中では既に少女は商品扱いだった。
貞操は一時守られているかもしれない。しかし、人としての尊厳はもう奪われているのかもしれない。
「う……うあぁ……」
「おうおう、お嬢ちゃん。怖いかい? 怖くないよぉ?」
大男は猫なで声でそう言いつつ、部下からなにかを受け取り、にやりと笑う。
「ほぉら、“僕”もついているからさ」
そう、男が掲げたのは生首だった。
それも、少女の馬車に同情していた、彼女の付き人の。
「―――ッ!!!」
最早その悲鳴は声にならなかった。
腹の底から熱いものが逆流してくる――少女がそれを感じた瞬間、大男が彼女の口を押さえた。
「おおっと、吐くなよ? 女が吐く姿に興奮する変態だっているんだぜ? うちの部下を誘惑しないでほしいなぁ?」
どうしてこんなことに。少女は絶望から逃れるために必死で目の前こと以外を考えようとする。しかし、口を押さえられ、先ほどまで会話をしていた付き人の生首を見せつけられ、最早何が現実で、何が彼女の想像なのか分かっていない。
ただ一つ、少女は自身が今日終わるのだと知った。生きながらにしても、ここから先にいるのは自分ではない。自分の形をした、心を壊された人形だろうと。
「いい表情だぜ。なぁ……お嬢ちゃん、処女か?」
男はニヤニヤと笑みを深め、再び同じ質問をする。
「処女じゃなかったらよぉ、今ここで……味見しても変わらねぇよな?」
少女はその言葉が理解できなかった。同じ国の言語の筈だ。なのに同じ人間が発しているとは思えない。
人ではないのが男なのか、それとも自分なのかさえも分からない。
だから、頷くことも、首を横に振ることもできない。
「まぁ、どっちでもいいか……最初から非処女のガキだったって言やぁよぉ」
男は少女を突き飛ばす。碌に受け身も取れずに地面に倒れた少女に対し、男は自らのズボンのふちに手をかけた――その瞬間、
――ヒュンッ。
何かが風を切る音。
それを少女の耳はハッキリと捉えた。まるでスローモーションのように目に映っている。
矢だ。矢が男の頭目掛けて飛来した。
そしてその矢は一直線に男の頭に刺さり――
――パキンッ。
いや、刺さらなかった。何かが弾け砕ける音。
それが聞こえた直後、矢はするりと進路を変え、男の後ろで2人の様子を今か今かと伺っていた男の頭に突き刺さった。
「ぐぇ――」
一瞬空気が固まる。
「チッ!」
しかし、それはあくまで一瞬。
男は瞬時に状況を察すると少女の頭を掴み上げ、自分の方へと抱き寄せた。
そして、次の瞬間――彼は来た。
――ドンッ!
強く地面を踏みつける音。
空から飛来し、盗賊たちの現場を荒らす、黒い髪の少年。
その背に矢筒を担ぎ、手に弓矢を携えたその少年は、男にも、そして少女にも一切言葉を掛けることなく、弓を構え、矢を引き絞った。
鋭い眼光で男を射抜きながら。
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