第3話

 全く予想外の出来事に驚き、雪子は椅子から飛び上がってしまい、そのまま後ろ向きに派手に転倒した。瞬間的に頭をかばったために、背中を床に強かに打ち付ける形になってしまった。激痛のせいで、雪子は暫く起き上がれなかった。苦痛に悶えながら床でうずくまっていると、実験室の扉があき、一人の女性が入ってきた。

 それは寄生虫学講座の助教の一条真理子だった。

「真田さん!まだ残ってたの!?何かすごい音が聞こえたけど…」真理子は、実験室で倒れている雪子に駆け寄った。その腕は雨で濡れていた。

「一条先生……?」雪子は床の上でもがきながら、絞り出すような声を出した。「どうしてこんな時間に教室に?」壁に掛けられた電子時計は23時半を示していた。。

「忘れ物しちゃってね。自宅のカギ。家に着いて初めて気が付いたのよ。それで」あぁ、と雪子は納得した。この人は以前にもスマホや財布を教室に忘れた事があった。そういったものなら翌日に忘れず回収すればよいが、自宅のカギとなるとそうはいかない(彼女は一人暮らしなのでカギを開けてくれる家族もいないのだった)。それで真理子は雨の中をわざわざ教室まで戻ってきたのだ。

「まぁ私の事はほっといてよ、ただのオマヌケだから」真理子は恥ずかしそうに笑った。「それより、真田さん、まだ実験やってたの?」机の上を見て、真理子は訊ねた。「なかなか実験が上手くいかないと焦る気持ちはわかるけど、無理しすぎると身体に悪いわよ」

 真理子は裏表の無い人物だった。雪子は、彼女が誰かの陰口を言っているのを聞いた事が無かった。そんな真理子の素朴な気遣いは素直に嬉しかったが、一方で雪子は、そうは言っても上手くいかない時はしょうがないじゃないか、とも思った。

「わかってはいるんですけどね……」雪子は歯切れの悪い返事しか出来なかった。彼女は、背中の痛みがようやく徐々に引いて来たのを感じ、ゆっくりと身体を動かして立ち上がると、恐る恐る机の上を確認した。不幸中の幸いにして、実験器具は無事だった。これがダメになっていたら、雪子の深夜までの苦労はそれこそ水の泡となるところだった。

「もうちょっとで今日の実験は終わりますから、そしたら私も帰ります」雪子は真理子に言った。「お気遣いありがとうございます」

 真理子は、無理しないでね、と念を押すと、実験室を出た。そしてロッカー室に向かい、自分のロッカーの中から家のカギを見つけると、もう一度実験室に顔を出した。雪子に軽く手を振り、頑張ってね、と声を掛けてから、彼女は帰路に就いた。廊下は再び消灯された。

 再び一人になると、雪子は急に寒さを感じた。もうすぐ日付が変わる時間だ、寒いのも当たり前だ。一条先生の心配通りに風邪でも引いてしまったらバカバカしい、さっさと実験を終わらせて帰ろう、と雪子は心の中で呟いた。彼女は机の端に寄せていた実験器具を再び中央に移動させると、ラックに掛けてあったマイクロピペットを手に取った。雪子は、大きくため息をついた。自分以外誰もいない実験室は、やはり空調と実験用機械と雨の音だけが響いていた。            

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隙間の神 小林 梟鸚 @Pseudomonas

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