第2話

「あなた、何?」雪子は率直に訊ねた。それは、端的に言えばマウス(ハツカネズミ)の姿をしていた。外見上は、実験動物としてごく普通に飼育されているマウスそのものだった。毛は白く、人間の手のひらにすっぽり入るほど小さい。4本の前指に5本の後趾、鼻の周りに伸びているヒゲも、一般的なマウスの特徴とする合致していた。尻尾は細長く、体長の半分ほどを占めている。間違いなくマウスだ。しかし、見た目はともかく、それはただのマウスで無い事は明らかだった。

というのも、それは後肢だけで立ち、二足歩行をしていたのだ。その様子は、まるで人間が中に入っている着ぐるみのようだった。雪子が思わず『あなた』と呼び掛けたのも、それが動物というよりは人格を持った何かであるかの様に感じたからだ。

「俺か?」マウスの姿をしたそれは、人の言葉で答えた。マウスを飼育していると、確かにそれらがチューチューと鳴く声を聴くことがある。目の前の何かの声も間違いなく、マウスの甲高い鳴き声と同じだった。

「俺は『隙間の神』さ」それは、偉そうに腕を組んで、堂々と名乗った。

「隙間の神?」雪子は訊き返した。その言葉には聞き覚えがあった。咄嗟には思い出せなかったが、数秒ほど考えた後に、それがどういった言葉かを思い出した。

 科学が未発達な時代、この世のあらゆる現象は宗教的な理論で理解されていた。雷も、病気も、天体の運行も、全ては神の思し召しであるとされていた。しかし時代が下り、徐々にそういった現象に科学のメスが入っていった。人々は、自然現象を科学的に理解するようになった。それでも世の中には、宗教を捨てない人間がいた。彼らは、世界には科学で説明出来ない事象もあると言い、それこそが神の奇跡であると主張した。しかしながら、科学者は宗教家の反抗に対して冷酷だった。確かに世の中には、『今は』科学で解決出来ていない問題もある。しかしそういった問題も、次々と科学的に解明されて行っている。そうやって『科学で説明出来ない事象』はどんどんと減ってゆく。君たちの信じている神とやらは、そういったどんどん狭くなってゆく『隙間』にしか居場所の無い出来ない哀れな存在じゃないか。科学者は、そう言って哀れな宗教家を一蹴したのだった。

 しかし、その『隙間の神』を自ら名乗る存在が、今まさに雪子の目の前に現れたのだ。

「随分と可愛らしい神ね」雪子は答えた。隙間の神の自信満々で尊大な態度を前にして、雪子は弱みを見せる事を生理的に嫌がった。有り体に言えば、コイツにはナメられたくない、と感じたのだった。しかしながら、彼女の口調には、虚勢の色があった。二本の足で立ち、人語を解するマウス、その存在こそ、まさに科学では説明の出来ないものだった。正直なところ、雪子は混乱していた。いったいコイツは何者なのか?本当に神様?もしそうだとして、何故ここに?当然の如く疑問は尽きなかった。隙間の神は、その丸い目で雪子の事を真っ直ぐに見つめていた。雪子も隙間の神から目線をそらすまいとした。何しろ、隙間の神は、雪子が実験をしていた机の上にいたのだ。もしヤツが実験器具にいたずらでもしようとしたら、何としても阻止しなければならないと思った。雪子は、軽い息苦しさを感じた。

「可愛らしいとは、随分な言い方だな」隙間の神は腕を組んだまま答えた。「これでも昔は、もっと強くて大きかったんだぜ。それこそ、お前みたいな小娘一人、片腕だけで捻り倒してやれる位にさ」そういうと隙間の神は左腕を振るって見せた。何ならひと暴れしてやってもいいんだぜ、とでも言いたげな態度だった。

「実験器具に触らないでよね!」雪子は慌てて叫んだ。「昔はどうだったのか知らないけど、今のあなたは力を失った。科学が発達した事でね。そうでしょ?」言いながら、雪子は実験器具を隙間の神から遠ざけた。

「力を失った?違うね」隙間の神は、相変わらず自信満々に答えた。「力が弱まっただけさ。失ってはいない。お前だって科学者の卵なら、この違いは分かるよな?俺の力はゼロじゃ無い」

背後では、空調と実験用機械の、大きくはないが耳障りな音が、相変わらず鳴り響いていた。

「随分と強気だけど、力が弱まった事は認めるのね」雪子は、やはり隙間の神から目を離さずに言った。机の上の真ん中に隙間の神がいて、その回りには雪子が動かした実験器具が並んでいた。照明は元々机の中央を照らすように備え付けられているため、ちょうど光は隙間の神を照らすような形になっていた。それはまるで舞台の様だった。隙間の神はただ一人の演者、そして雪子は、その舞台を眺めるただ一人の観客だった。

「俺にとっては、強弱は些細な問題さ」マウスの姿をしたそれに、動揺の色は見られなかった。「俺にとって大事な事はただ一つ。俺は永遠に存在し続ける、この一点さ。俺はこれからも、もっと小さく弱くなっていく。今はこんなマウスみたいな姿だが、そのうち俺はショウジョウバエみたいになってしまうだろう。もっと小さくなれば、大腸菌みたいになるかもしれん。だけど、俺を完全に消し去る事は、お前たち人間には出来ないんだ。大事なのはそこさ!」隙間の神は、机の上を歩き回り、身振り手振りを交えながら演説した。そのしぐさがあまりにも芝居がかっていたため、それはまるで、3DCGのアニメを見ているようだった。

 雪子は、自分の呼吸が速まっているのを自覚し、大きく深呼吸をした。隙間の神の言っている事は、確かに一理あるように思われた。今という時代に科学では説明出来ない事象があるのと同様、1000年後の未来でもやはりそういった事象は存在するだろう。その時代に隙間の神がショウジョウバエになっているか大腸菌になっているかはわからないが、奴はどんなに狭い隙間でも自分の身体の大きさを変えて潜り込む事が出来る。人間はどんどん隙間を埋めていく。隙間の神はどんどん小さくなっていく。このイタチごっこは恐らく未来永劫続くのだろう。

 外では、相変わらず雨が降っている様だった。

「だけど、それこそ屁理屈じゃ無いの」雪子は言った。「現実にあなたがもっともっと力を失ってごらんなさい、それこそ大腸菌にでもなったら、私たち人間はあなたの存在など気にもかけないわよ。だって、あまりにも小さすぎて見えないんだから。それはつまりいないのと一緒よ」

「本気で言ってるのかい?」隙間の神はわざとらしくおどけてみせた。「見えないものをも見ようとするのがお前たち人間の性だろう。だから人間はわざわざ顕微鏡なんてものを作って、自分達に腹痛と下痢を引き起こす小さい小さい単細胞生物の正体を突き止めようとした。それと同じさ。お前たち人間は、たとえどんなに小さな隙間であっても、そこに何があるのかを知りたいという好奇心を自制する事は出来ない。だからこそ、俺も不死身なんだ。こういう言葉があるだろう、『深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ』」

 語るに落ちたな、と雪子は思った。その時ふと、彼女は精神科医に言われている事を思い出した。

「よりによって神がニーチェを引用する?」彼女は呆れて言った。「いいわ、あなたの言い分は良くわかった。でももうこれ以上あなたのお喋りに付き合うのは御免よ」雪子はかじかむ手で白衣の右ポケットをまさぐった。様々な紙切れ、コンビニで買ったシュシュ、小型のはさみ、3色ボールペン……そういったものを掻き分けて、雪子は目当てのものを見つけた。それは、小さな白い錠剤だった。

「これを飲むわ」

「何だ、それは?」隙間の神は、首を捻って訊ねた。

「抗不安薬。精神科の先生に、イライラする時や不安で辛い時に飲みなさいって言われてるの」雪子は、錠剤を1錠手に取り、しばらく考えてから、もう1錠取り出した。

「反論出来なくなったか?俺の言う事を認めるんだな?」隙間の神は、雪子を指差して挑発した。しかしその言葉には、どことなく焦りがある事を、雪子は感じ取った。彼女は隙間の神を無視して、2錠の錠剤を口に含むと、自分の唾液で飲み込んだ。尤も、この時雪子は口の中が乾いていたので、錠剤を飲み込むのは一苦労だったのだが。

「俺を無視するというのか?」隙間の神は怒りを露わにして言った。「お前たち人間には、俺を殺す事は出来ない。それは認めるんだろう?だのにお前はこの俺を見なかった事にすると言うのか?お前はそれでも科学者か?現実から目を背けるのが、科学的態度か?お前がその気ならこちらにも考えがある。この机の上にある実験器具を片っ端からぶちまけてやるぞ!」

「あなたにはそんな力は無いわ」雪子は取り合わなかった。「あなたはしょせん、私が見ている幻覚だもの。私はちょっと実験が上手くいかなくて、それで精神的ストレスを感じて『隙間の神』だなんて幻覚を見た。だから私は薬を飲んだ。それだけの話よ」彼女は、椅子の背もたれに寄りかかった。ゆっくり、深く呼吸をしようと努力した。「『神は死んだ』ってのは間違いだったのかもね。でも、科学の力で私はあなたを追っ払うのよ」雪子は目をつぶった。隙間の神はなおもチューチューと喚き続けたが、もう雪子はその言葉を聞くつもりはなかった。寒さのせいで、身体が随分と強ばっている様だった。

 その時、不意に実験室の外の廊下に明かりがついた。

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