隙間の神
小林 梟鸚
第1話
壁に掛けられた電子時計は23時を示していた。聖応医科大学医学部寄生虫学講座の教室には、真田雪子以外のスタッフは誰も残っていなかった。雪子のいる実験室以外の部屋は当然ながら消灯されており、対照的に実験室だけが、蛍光灯のぼんやりとした明かりに照らされていた。空調と実験用機械の単調な音、それに外から聞こえる雨音だけが、延々と続いていた。単調な音は四方から雪子に襲い掛かり、彼女を一種の感覚失調の様な状態に陥れていた。実験中に音楽を聴くことは、教授から禁じられていた。もちろんその時間は雪子しかいないのだから、彼女が言いつけを破ったとしてもそれを咎める人間は誰もいないのだが、彼女の潔癖というかクソ真面目な性格は、監視者の不在を理由に自らがルールを犯す事を良しとしなかった。そんなわけで、雪子は周囲に響き渡るノイズに晒され続ける他無かったのであった。
「寒い……」右手でマイクロピペットを操作し、左手を白衣のポケットに突っ込みながら、雪子は独り言ちた。もう12月も中旬、世間はクリスマスを前にして色めき立っていた。彼女にもパートナーがいれば、そういった俗世の習慣に自ずと加わるという事もあり得たかもしれない。しかしながら、大学院生2年目の生活はあまりにも忙しく、教室内・大学関係以外の人間との出会いは全くと言っていいほどなかった。そうでなくても、雪子は元来神経質・引っ込み思案で、友人も少なかった。彼女にとって、12月はただ単に寒くて苦痛な季節だった。
実験の作業を続けながら、雪子は頭の中で自分が大学院に入ってからの頃を思い出していた。最近は、一人でいるときは過去の事をクヨクヨと思い返すのが、彼女の悪い習慣になってしまっていた。指導教官から『広節裂頭条虫の腸管内寄生成立に関するエピジェネティクス』という長ったらしいタイトルの研究テーマを与えられた時、雪子はあまりピンと来なかった。率直に言えば、あまり興味が湧かなかった。しかしながら、一介の大学院生にテーマを自分で選ぶ権利など無かった。彼女は言われるままに論文を読み、実験手技を習得するべく練習した。他人に言われた事をやっているうちは大きなトラブルは無かった。分からない事や上手くいかない事は、誰かに聞けば教えてくれたので、すぐに解決した。大学院生としての最初の1年は、そうしてまぁまぁ平穏に終わった。
しかし2年目に入って、彼女は壁にぶつかった。この年度になると、雪子は科学者の卵として、自ら仮説を立ててそれを検証する事を求められるようになった。その時になって初めて雪子は、興味の無い事について考察する事の苦痛を思い知らされた。それでも何とか考えを捻り出し、それを検証するために実験を行ったが、期待した結果は簡単には得られなかった。そうこうしているうちに、桜は散り、セミは死に絶え、紅葉の季節も終わり、あっという間に冬が来た。
外では、冷たい雨が降り続いていた。
雪子は、ふと我に返った。あまり過去の事ばかり考えていてはいけないと、かかりつけの精神科医に言われているのを思い出したのだ。彼女は、2年目の9月に一度パニック発作に伴う過呼吸を起こし、それ以来精神科に通院していた。どんなに後悔しても過去は変えられない、過去の嫌な事ばかりを思い出していると、思考がどんどんとネガティブになってしまう、過去に囚われるよりも目の前の事に集中した方が良いと、雪子は医師に忠告されていた。
「気持ちを切り替えなきゃな……」雪子は自分に言い聞かせるように呟いた。彼女は右手のマイクロピペットを一旦ラックに置いて、軽く頭を振った。今は目の前の仕事を片付ける事に集中しなければ。少なくとも今日中に、今やっている作業だけは終わらせたかった。
雪子は、実験器具で散らかった机を眺めた。その雑然とした様子が、今の自分を象徴しているようだと思ったが、それもまたネガティブ思考だと自分を戒めた。雪子は一旦椅子から立ち上がり、大きく伸びをした。体幹の筋肉のこりが若干和らぎ、全身に血液が巡るのを感じた。ささやかな快感だった。雪子は再び椅子に座ると、今度は目の疲れが気になったので、左手の親指と人差し指で両方の目頭を強く押さえた。グーッと5秒ほど目頭を押さえていると、何だか自分が泣いているみたいで、少し奇妙な気分だった。左手を離すと、雪子は再び机を見た。
すると、雪子の目に、本来そこにいるはずの無い『何か』が見えた。
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