美容室 湿湿–

GROTECA

怪奇現象の裏側

あり得なくない?

ちょっと聞いてよ、うちの家の風呂場がね、最近変なの。

水漏れ?が酷くて、脱衣所の床がね、一面バーって!水浸しになってて、拭いても拭いても、次の日にはまーた同じ状態。

ううん、忙しくてまだ専門の人には見てもらってないのだけど、水も臭くないし綺麗だから、とりあえず拭いてやり過ごしてて。

でも、放置しすぎてカビも生えてきたっぽくて、壁もめくれてきてるし、そろそろマジでやばいかなって思って……。

え?

なに?その壁をめくってみろって?

はあ?嫌に決まってる、ばっちいよ!無理無理。

……何、その辛気臭い顔、何が言いたいのよ。

うん?信じられないかもしれないけど?……おい、もしかしてオカルトの話?

ないない、そんなのじゃないって、それとも何?あんたの方こそ、何かあったの?

『実は、……』



本当にそんなことってある?

あいつの話によると、その怪奇現象は『お知らせ』、らしい。

確かに私は、最近は仕事が忙しくてまともに髪も切りに行けていないけど、まさか、こんなジメジメした壁をめくったらそこに美容室があるなんて、そんなおかしな話、あるわけが。


『美容室 湿湿 - ジメジメ -』


情けなく丸まった壁を摘んだ指先に、ピリリと緊張感が走る。

水漏れの影響は思いの外大きかった。

恐る恐る壁をめくってみたら、ドア一枚分ぐらい一気に剥がれてしまったのだけど、その先の空間には、明らかにお店の入り口が、なんかこう、ギュッと敷き詰まっているの、だが。

「美容室、ジメジメ……?」

いや、確かに水漏れが原因でジメジメはしているのだが、それってもしかして、もしかしなくとも、この店が原因なのでは?

……夢か現実か、ここは私の家だし、いざ目の前にあるのだから、文句の一言ぐらい言ってやるべきなのでは。

これ以上ごちゃごちゃ考える前に、私はこの奇妙な店のドアノブを引いていた。


「いらっしゃいませ、」


奥の方からか細い声がした。

軽く会釈をしてやって来たのは、細身の男性である。

顔は悪くない。

少し長めのふわふわした前髪を横に流している。

よく見るとそのふわふわ部分には、白や金色といったメッシュ?が刻まれているようだ。


「こんにちは。どうぞ、こちらへ」


微笑まれた。

あ、親しみやすそう。

「あの、ここは美容室?…ですよね」

しどろもどろ口を開きながら、私は奥へ案内されていく。

「初めてのご来店ですね。美容師は俺一人ですが……」

鏡の中、彼の手先の行方を辿る。

濡れて乾いた後のような、少しふやけた名刺が手渡された。

「湿森と言います。湿る森で、ジメモリです」

「あ、えと。赤朽です。色の赤に、朽ちるで、あかくち……」

「赤朽さんですか。珍しいお名前でかっこいい。じゃあ、どんな感じにしましょうか?」

どんな感じに。

その言葉で途端に頭が真っ白になって、体がガチガチになる。

伝わるように答えないと、具体的に説明しないと、ええと、髪の毛、久しぶりだから思い切ってイメチェンしたいけれど、どうしよう、どうしよう……。

どんな感じ、どんな、感じ。

ああもういいや、またいつものように肩までバッサリで、テキトーにカラーしてもらって。


「ところで、どうやってここを探してくれたんですか?やっぱり口コミとか、ですかね」

「は、……。あ、ああ、そうですね。口コミっちゃ口コミかな、あはは」

突然話題が切り替わり、咄嗟に同意してしまうポンコツ具合。

場所以前に、どうしてこんなことになっているのか、私が一番知りたいのに。

「そっかそっか。お友達とかからですか?」

「ええ、まあ。そう、友達が……以前こちらを利用したみたいで。相談したくて久々に会ったら、…すごい雰囲気が変わってて、びっくりしたんですよね」

湿森さんは、私の髪の状態を見つつ、終始頷いてくれていた。

「お友達に相談、ですか。何か悩み事が?」

「そう、ですね。ちょっと家のことと……」

「家のことと?」

「仕事のこと、で」

言った後で、自分でもハッとした。

あの子とは、確かに家の奇妙な現象について話す前に、仕事の愚痴を言っていた。

「お仕事大変なんですか?」

「大変というか、やりたいことと、ちょっと違ってて。……モヤモヤしてるんです。本当は好きなことを仕事にしたくて、叶わないわけじゃないのに、妥協しちゃってる自分がいたりして」

「なるほど……。今は何の仕事を?」

「病院の方の事務です。就職がなかなか決まらなくて、やっと滑り込めたところで何とか続けてて、」

「そいで、本当のやりたいことっていうのは?」

「……る」

「る?」

「あ、……アパレル関係に、行きたくて」


恥ずかしい。

お世辞にもそんな風には見えないと、湿森さんは思ったに違いない。

昔から服が好きで、お洒落が大好きなはずだけど、今の私は事務仕事に就いているし、動きやすい服ばかり着て、メイクも派手にならないように気を付けて、髪だって一つに束ねるだけで、シャンプーもトリートメントも特に拘りを持たなくなっていて。

家だから今は好きな服を着ているけれど、今更ながら、あまり手入れされていなくてバサバサな髪やすっぴんに近い顔の自分が、とてつもなく気になり出して、もう止まらない。

「赤朽さん」

心臓が跳ね上がる。

どうしてだろう、上手く声が出せなくて言葉に詰まる。


「髪、明るくしましょう」


頭を撃たれた?

湿森さんの言葉が私の脳内を真っ直ぐに突き抜けた。

「え、…?」

「それも、ピンクとかパープルとか。派手だけど、女の子らしい感じで」

「ま、待ってください。ピンクとかって、ちょっと…」

「でも赤朽さんの好きな色ですよね?その服、模様が派手でカッコかわいい。雰囲気ぴったりですごく似合ってますよ。今は事務仕事だけど、本当は派手なのが結構好きなんだよね?」

「あ…、うん、…」

今、褒められたのかな…?

思わずタメ口になってしまったので謝ろうとするも、湿森さんは優雅に口を開く。

「じゃあ大好きな服装に合わせて、髪色も可愛くしてみない?こういう、いわゆる"ゆめかわ''系は俺の得意分野なんですよ」

「で、でも、学生ならまだしも、私じゃもう"ゆめかわ"なんて、」

予想外の"ゆめかわ"発言に戸惑いを隠せないし、湿森さんがどんな表情でそう言っているのか知るのが怖くて、顔を直視できない。

細身だけれど男の人を思わせる筋張った腕だけで、私の視界はいっぱいいっぱいだった。


「友達のイメチェンは、赤朽さんにとってどうだった?」

まただ。

どんなに頭がパンクしそうになっても、湿森さんの言葉にはハッとさせられる。

イメチェン、……あの子の。

あの時私は、あまりにもあいつが私の理想に近付いていて、正直悔しかった。

だからちゃんと、『かっこいい』と言ってあげられなかった気がする。

「…………。紫、……パープルは嫌です。激変してきた友達が、似合ってたから」

性格悪い、私。

でも、今のは間違いない本音。

だから取り消すこともしたくない。

複雑で面倒な乙女心ってヤツに、この人もドン引きするのかな。


「素敵だね。そういう気持ちがあるから、女の子は綺麗になるんだよね」


お行儀良く重ねていた両手に、キュッと力が入る。

湿森さん。

「ほら、俺なんか美容師らしからぬジメッぽさでしょ?こんなんだからお宅までジメジメさせちゃって、本当、すみませんね」

頼りなさげな、不器用で安心する笑顔。

鏡越しのシルエットは変わらず線が細いけれど、この人の周りは、マイナスイオンが溢れているような。

そして、湿森さん、あなた、あの怪奇現象の元凶の自覚があったんですね?

この場所をどうやって探したのかとか、私と会話をするための口実だったんだ、やられたなぁ……。

ジメジメしてても、ちゃんと話術を持った美容師なんですね。

「でも、直々に僕を指名してくれたのは、赤朽さんご本人なんですよ。本日はこの湿森が、責任をもって担当しますから」

「ふ、」

私がいつ、あなたを?

なんだか楽しくなってきた。

湿森さんはゆるくてあべこべで、やっぱり変わった人なんだろう。

このよく分からないサロンなら、よく分からない私を任せてしまってもいいのかな?

私がピンクの頭になったら、今度こそ、あいつと一緒にお店に立てるのかな。


湿森さんは手袋を自分の息で膨らませ、カラーの準備に取り掛かっている。

「美容師って、手袋つける時皆こうやるでしょ?俺、これ苦手なんだ。今回も一発でできなかったよ…」

「ふふ、しっかり見てましたよ。失敗してるところ!」

「でしょうね……。俺ってカッコつかないんですよ、本当に」

肩を落としながらも、湿森さんは慣れた手つきで私の髪を塗り分けていく。

ブリーチ剤を塗られた時の、頭皮がひんやりする感覚が心地良い。

懐かしい。

大学生の時は色々なカラーを試して楽しんでいたなあ。

脱色を早めるため、熱を加えてしばらく放置されている間、ピリピリする痛みと共に少し昔の思い出がちらほらと蘇っていた。

「何か飲みますか?」

手渡された小さなメニューに書かれていたのはお茶ばかりで、いかにも湿森さんらしい気がしてしまい、また少し笑みがこぼれた。

「あ…、じゃあ、緑茶を」

「お、俺も緑茶一番好きです。冷たいので良いですか?」

「はい、お願いします。でも、なかなかマイナーですよね」

「うーん、そうなのかな……。俺はお茶が好きだからオススメしたいんだけどね」

苦笑いしながらも照れ臭そうにしている、幸せの美容師。

私も、もうずっと口角が上がりっぱなしのようで、柔らかい気持ちで少し猫背気味な後ろ姿を見送っている。

それからは、冷たくて美味しい緑茶を飲んだり、他愛のない話をしたり、少しの沈黙と、最近流行っている漫画を読ませてくれたり、至れり尽くせりというか、こういう時間は、本当に私にとって久々だった。


「私じゃないみたい…」

「ん?寧ろさっきよりずっと、赤朽さんらしくなったじゃないですか」

湿森さんは、側で温めていたコテを、生まれ変わった私の髪に充てがう。

赤のような、ピンクのような、確かに軽やかになった私の髪。

髪色のせいか、顔色も良く見える。

この髪に合うメイクやファッションを思うと、とても、とてもワクワクする。

「そういえば、赤朽さんのお友達、俺がパープルに仕上げたあの方、」

「はい?」

「夢があるって、語ってくれました」

「夢?」

「そうそう。彼、モデルをやってるみたいなんですが。昔から好きな女の子がいて、その子はハンドメイドでオリジナルの服を作るのが趣味なんだそうで。その子の作る服を自分がモデルで着て、二人でブランドを立ち上げたいって。笑顔で言っていましたよ」

……え?

「え、あの、」

「そのパープルの彼が好きな女の子って、」

「待って、」


「赤朽さん、ですよね?」


顔が、熱い。

耳の辺りと、首の後ろが、もう。

「灼熱……!」

「あはは、とっても素敵じゃあないですか」

あいつ、あいつ!

そんな恥ずかしいことを、こんな人に言っていたなんて!

ちょっとスタイルと顔が良いからって、モデルかじってるからって、ああもう、さっきまでリラックスしていた自分がこんな思いをすることになるなんて、本当に恥ずかしい。

「あいつ、駱駝、ホント、マジで……」

「そうそう、彼はラクダ君といったね。モデルというだけあって結構な二枚目で、あんなに淡い紫が似合う男もなかなか…って、それは君が一番よく知っているのかな?」

「湿森さん!も、もういいですから!……でも、あいつ、そんなこと言ってたんですね……」

複雑で、この上なく頬が緩んでくるこの気持ちを、どうすればいい。

いや、そうじゃない。

どうすればいいかなんて分かり切っている、だから余計に戸惑うのだ。

「はい、出来上がり。赤朽さん、この後すぐに!彼に会いにいきましょう」

「な、この後って、そんなの無理に決まって…!……あ、髪型が、」

なんと、悶々としている間に私の髪の毛は、またもや生まれ変わったように可愛くなっていた。

丁寧で綺麗なウェーブを目で追うと、行き着く先にはさりげなく編み込みまで施されている。

「可愛い……」

……見せたい。

羞恥心が抜けたわけじゃない。

でも、素直に、見てもらいたい。

学生時代の、気の合う友達に。

あったかい、私の家族に。

そして、その誰よりも何よりも先に、特別で大好きなあの男の子に、見て欲しい、なんて。

「さ、早いとこ彼に電話しちゃいましょう!ほらほら、ここからは料金とっちゃいますよ〜」

「あ、そうだお金!ちょっと待ってください、財布とってきますから…!」

「赤朽さん、」

わたわたと席を立つ私の腕を、一際強く引くその腕は、やっぱり細い。

「あなたがこの後、ラクダくんと会う約束をしてくれるなら、僕は料金はとりません」

「ちょ、湿森さん、そういうのもういいですって!……お金、ちゃんと払いますから」

彼はさっきから、一つも表情を変えないで私を見る。

冗談で、私をからかって、物を言っていないのは嫌でも伝わるんだ。

でも、最初からやっぱり、現実味なんて無いんじゃないか。

「きっと、夢みたいに思っているでしょう。あなたはまだ、夢心地でいるのでしょう?」

「……。」

「僕は僕の仕事をした。現実にするのは、あなたですよ。」

その瞬間、涙腺を弾かれたような気がした。

いつも、人知れず目の端に溜めていた涙が、もう嘘にしなくていいと言った。



「黄助、襟がよれてる。」

ぶっきらぼうな言い草とは裏腹に、丁寧に服装を正してくれる彼女は、赤朽紅あかくちべにという。

言っておくが、超絶可愛い。

「……ちょっと、また無意識にヒトの髪触るし。やめて。てか、いい加減慣れてよ」

そうは言われても、真っピンクから少し落ち着いてきた淡い髪が、俺は気になって仕方ない。

「湿森さん、どうしてっかな」

ふとあの人の名前を口にすれば、彼女も独り言のようにぽつりと返す。

「ふにゃふにゃの名刺、大事に取って置いてるんだけどね」

紅は穏やかに微笑みながら、「たぶんもう、あんたも私も二度とあそこには行けないだろうけど」と付け加える。

そう、二度目はない。

けれど、そのたった一回の御伽噺が、俺たちを俺たちにしてくれたんだろう。

駱駝黄助らくだきすけの名も、ここのところ随分売れてきたような、熟れてきたような。

「紅、」

「ん?」

「俺の夢は、足の先から頭の天辺まで、全部おまえにプロデュースしてもらうことだよ。おまえの作品を、俺だけが楽しみにしてる」

「ばっ、!……」

いつものように真っ赤になって怒鳴るのかと思いきや、今回のは少し様子が違う。

彼女は小さく息を吐いて、もう一度襟を正すみたいに、俺に手を掛けた。

「そいえば、私はいつもちゃんと言えてなかったよね。あんたは私をこれでもかって、褒めてくれるのに」

沈黙。

されるがまま、けれどしっかりと、その大事な言葉を待つ。

「ありがとう。黄助、いつもありがと。私を変えてくれるあなたは、一人の男としてこんなにもかっこいいよ。…私、頑張るから。一緒に夢を叶えようね」

恥ずかしがることなく、凛としたその女の子は、駱駝の俺にはもったいないくらいだった。

女性はふとしたきっかけで、すぐに目の届かないところまで美しくなってしまう。

気付いた時には、俺も、あの湿森さんでさえも、見失わないように見惚れることしかできないのだろう。

けれど、男子諸君、女を磨いてあげられるのは寧ろ俺たちなのだ。

…抱擁したい気持ちを抑えて、俺は彼女に右手を差し出した。

握手と笑顔。

「これからもよろしく、パートナー」


二人微笑み合って、後に向かった楽屋はなんだかやけに湿気高くて、再びあの現象に苛まれたとか、いないとか……。











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