第25話 書学と言葉

翌日、セラフィが用意してくれていた昼食をとってすぐに、俺は授業を始めた。

今日の授業科目は「書学」である。


チャロス村で起きているはずの問題も気にはなるが、第一に俺が果たすべきは、家庭教師としての職務だ。それを疎かにすることは許されない。


明日は授業が休みということになっているから、村を訪ねるのは一日だけお預けだ。

市長は、今日のうちにでも調査員を派遣できればと言っていた。だが役人というのはその日その日の仕事がかなり前から決まってしまっているもので、そう簡単にはいかないらしい。


仕事の内容が問題の調査である以上、素性の知れない者を日雇いで使うわけにもいかないからな。

ともかく、俺は目の前の授業に集中しなければ。


書学とは、言ってしまえば国語である。文章を書くことや、文章を読んでその内容を理解することが求められる科目だ。


そしてラトリアル魔法学院では、「書学」や「地理歴史」の配点は他の科目に比べて低くなっているのだ。きっと元の世界で言う、理系大学は文系科目の配点が低い、というのと同じなのだろう。

理系人間で国語が天敵だった俺としては、ありがたいことだ。

正直に言って、国語なんて上手に教えられる気がしないからな。


「じゃあ、教科書の32頁から、読んでくれる?」

「はーい、音読すればいいのね。えっと、『それは、記憶の及ばない遠い昔、夕闇が空に溶け始めたころのことである……』」


内容は、この世界ではそこそこ有名らしい文学小説だった。

リアナは小鈴の鳴るような声で、少しばかり陰鬱なその小説の文章を読み上げていく。


「『彼は全く、その自身の……』ノエリア先生、これ、何て読むのかしら」

「ん?……ああ、これは『狡猾こうかつ』ね。ずるいって意味」


そういえば、これはつい最近に気が付いたことなのだが、この世界の言葉と元の世界の言葉は、使っている文字の形が違うだけで、その他の文法や『漢字』の概念はどうやら同じであるらしい。


だからこそ、文字の翻訳文が頭に浮かんで見えるだけの俺でも、普通に会話をしたり文章を書いたり、さらには漢字の読み方を答えたりすることができるのだ。


書学の授業はその後、教科書に備え付けられた文章読解の問題を俺が出し、それにノエリアが答えて俺が模範解答を教える、という形でお茶を濁した。文章の解説なんてできる気がしなかったからだ。

俺は、元の世界で現代文を教わっていた教師に、今更のように尊敬を感じていた。




授業が終わったのは、午後の四時を過ぎたころだった。

そこで俺は、ふと以前セラフィと交わした約束を思い出し、厨房の方へ向かう。


案の定、セラフィはそこで夕食の準備をしていた。

「あら、ノエリア先生、どうされましたか? 夕食にはまだ少しかかりますよ」

俺は小さく首を振る。


「いや、そうじゃないんです。一昨日に、時間があるときは掃除とか家事を手伝うって約束、したじゃないですか。昨日は時間が無くてできなかったですけど、今日は―」


するとセラフィは目を輝かせて、俺に飛び込むようにして抱き着いてきた。

いやだから、それは胸が顔にあたると……!


「ありがとうございます、ノエリア先生!」

「そう、だから――」


どこを掃除すればいいですか、と尋ねようとしたのだが、既にセラフィは俺の話を聞いていない。


「だから、メイド服を貸してほしいんですね! わかりました、すぐ用意いたします!」

と叫んで、厨房を駆け出していくセラフィ。というか、火がつけっぱなしなのはいいのか。

そして、ものの十数秒で戻ってきたセラフィの手に握られていたのは、一昨日見たメイド服と全く同じものだった。


「えっと、それでセラフィさん、どこを掃除すればいいかな……」

もはや無言でメイド服を受け取ってしまった俺は、完全に毒されているのかもしれない。俺は肺の底でため息を飲み込んだ。




一度部屋に戻り、メイド服に着替えることにする。

別に着替えなくてもいいんじゃないかとも思ったが、折角の好意を無碍むげにするのも申し訳ないので、大人しく服を脱ぐ。


べ、別に、ホントは着たいとかじゃないんだからねっ! と、頭の中で馬鹿なことを考えながら、身に纏っていた、昨日買ったばかりのサマードレスを脱ぐ。


そしてその下には、当然のように昨日買った女性用の下着も身につけられていた。

やはり、自分がこんなものを身につけているというのは、冷静になってみれば恥ずかしいことこの上ない。

いっそ外してしまおうかと思ったが、それはリアナの親切を裏切ることになる。


しばし逡巡した俺は、結局ブラジャーの背中のひもを解くこと無く、メイド服へのモード・チェンジを終えていた。


部屋に備え付けられた姿見を覗き込んで、俺はふと妙なことを思いつく。

「お帰りなさいませ、ご主人さまっ」


イメージは、秋葉原のメイド喫茶。

しかし、冗談交じりで口にしたはずのそのセリフは、鏡の中の金髪美少女には似合い過ぎていて、俺は狼狽えずにはいられなかった。


このままこの体に順応してしまってもいいのではないか、という考えに、一瞬囚われそうになる。

だが、決してそれは許されることではない、と俺は自らを改めて戒めた。


ノエリアという、この体の持ち主の少女が今どこで何をしているのか。

少なくともそれが分かるまでは、俺は、この身体を完全に自分のものとして奪い取ってしまうわけにはいかないのだ。

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