第5話 呆気ない承諾

ノエリアの地元、ユーバ村へとようやく到着した俺は、御者の男に礼を言って馬車を降りた。


市民証に書かれていた場所に向かうと、そこにあったのは木造平屋建てのこぢんまりとした家屋だった。

あばら家とまではいかないが、煤けた壁やハゲかかった扉の色を見ると、それなりに古い家とわかる。


「ここがノエリアの実家か」

俺は自分の頬を平手でパンと叩いた。


鬼が出るか蛇が出るか、といっても、いるのはノエリアの親だけだろうが。

意を決し扉を開く。田舎の村だからか、カギはかかっていなかった。


「た、ただいまー……」

「あら、おかえりなさい」


手に洗濯物を抱えた、40代ぐらいの女性が、俺の方に視線を向けて言った。

この人がお母さんなのだろう、ということは考える間でもなくわかる。

そして、ノエリアの記憶なのか何かはよく分からないが、反射のように口から言葉がついて出た。


「ただいまお母さん」

それから俺は、知らない人の家に自分の家のように上がり込む罪悪感を覚えながらも、あくまで何でもない風を装って家の中へと入った。


母親と思しき女性はどちらかといえば痩せていて、顔に刻まれた幾本もの皺年齢を感じさせていた。柔和に笑って、ノエリアの母親は俺に、いやノエリアに問いかけた。


「お父さんのお墓に行っていたのでしょう?」

「あ、……うん」


それを聞いて、母親はまた家事に戻った。

お墓? ノエリアの父親は既に死んでいるのか?


俺はあくまで自然を装い居間のような場所の一角に座る。

視線を定めかねていた俺は、古びた棚の上に一つの写真を見つけた。それは、ノエリアの父と思われる男性を写したものだった。遺影なのか何なのか、それは俺にはわからなかった。


さて、俺は何をすればいいのだろう。なにせ、ノエリアという少女の普段の行動がわからない。家事の手伝いでもすべきだろうか?

だが、市長の家で働くという話を早めに話を切り出さなければならない、というのも事実だ。明日にはまたあの御者が迎えに上がることになっているのである。


「あのさ、お母さん、ちょっと話、いいかな?」

俺は腹を決め、話を切り出した。

「なにかしら?」


そう言って彼女は、洗濯物を整理する手を止めて、柔らかい表情を俺の方へ向けた。

「あのさ、わ、わたし、……市長さんのところで、住み込みで、働くことになったの」


もし元の世界で同じ状況があったなら、高確率でここから親子喧嘩が勃発するところだ。

しかし、ほんの数秒の沈黙の後、ノエリアの母はまた笑った。


「そう、なら、頑張ってきなさい」

あまりにも呆気ない承諾、それに俺は思わず言葉を失ってしまった。


「え、でも、……」

「私のことなら、気にしなくていいの。しっかり、自分で自分の居場所を見つけてきなさい」

それ以上俺は言葉を継ぐことができず、ノエリアの母との会話を終えた俺は、ノエリアの部屋で出発の準備を整えることにした。


「これは……教科書か?」

おそらく書物の類は、市長の家にもたくさんあるのだろう。


だが家庭教師として働きに出る以上勉強は常にしなければいけない。

何せ俺はこの世界の知識をほとんど知らないのだ。馬車の中や市長から与えられた部屋でも勉強をして、出来るだけ醜態をさらさないようにしなければならないだろう。


結局俺は悩んだ末、家にあった4冊の参考書の全てを持っていくことにした。

「あとは、着替えか? いや、向こうで過ごすわけだから向こうで買った方がいいのか?」

そんなことを考えながら、何度も修繕した跡がある押し入れの戸を開いた。


「えっと、服……」

押し入れの端に積み重ねるように置かれていたのは、上下の服が2着、そしてその隣には白い下着が何着か。

強烈な罪悪感やら背徳感やらに襲われた俺は、何も言わず静かにその戸を閉じた。

「……さて、何を用意するのだったかな」


荷物の整理に結構な時間を使ってしまい、終わったころには夕食時であった。

夕食と言っても、ライ麦のパンと、野草を煮たものだけである。


それをゆっくりと食べ、二人ともが食べ終わったところで母親が立ち上がった。

「私、そろそろ寝ますね。ノエリアも、しっかり寝なさい。明日は日の出前に仕事に出るから、会えないと思います。仕事、頑張りなさいね」

「う、うん……」


このままでは本当に、会えないまま出発することになってしまう。それは何だか、この体の少女に申し訳ない気がした。


「えっと、また、休みがもらえたら近いうちに帰ってくるから。それと、仕送りもするから……」

思いつく限りの事を言う俺に、母親はまた柔和な笑みを浮かべた。


「そんなことは気にしなくていいの。あなたは、あなたのしたいことをしなさい」

そう言って寝床へと向かう母親のやせ細った背中を見て、俺は仕送りは必ずしようと思った。


父親が既に他界していると分かった今、この世界での俺の肉親は、この人だけなのだ。

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