第3話 市長と家庭教師
ふかふかのベッドが、背中を優しく包み込んでいた。
そのことを完全に知覚して、俺はようやく自分が寝ているという事に気が付き飛び起きた。
ここはどこだ、と寝起きの思考回路を必死に動かす。
もしここが病院のベッドなら、あの森の出来事は夢で俺は幸いにして、一命をとりとめていたということになる。
しかしその希望は、視界の隅をかすめた綺麗な金色の髪によって、あっさりと打ち砕かれた。
天井に吊り下げられた
あの森の世界、図らずも少女に
そこまでして、ふと俺は自分が今まで寝ていた空間を見回した。
白と茶色を基調とした、家具の少ないとても簡素なつくりの部屋だ。だがその部屋の隅に備え付けられた木目調のチェストなどの調度品は、地味でありながら気品がある。
例えるなら、邸宅の応接間、という感じだろうか。もっとも、その喩えでいうならば今俺が寝ているベッドが余計だが。
「どういう状況だ? これ」
ここが誰かさんの邸宅だとして、あの少女たちが俺をここに運び込んだというのは、少し無理があるようにも思う。
誰か別の大人が通りかかったか、そもそもなぜその場で起こさない?
俺が思案に暮れていると、扉をノックする音がした。
はい、と俺が小さく声を返すと、遠慮がちにゆっくりと扉が開かれる。
現れたのは、薄く髭を生やした、誠実そうな
「こんにちは」
俺はそう言って、ベッドの上で軽く腰を曲げて頭を下げた。曲がりなり、というか全く状況が飲めないにしても、寝床を借りた身な以上失礼はできない。
しかし男は快活に笑い、何でもないことのように俺に声をかけた。
「お、起きたかい。もうすぐ朝ご飯を出すよ」
『こんにちは』ではなく『おはようございます』だったか……。
「あの、ここは?」
そう言って軽く首を傾げると、男は自らの失態に慌てるように笑った。
「ああ、そうか、それもそうだ、これは失礼、自己紹介がまだだったな。私はアーネスト・シャーロック、ヴェルダ市の市長で、リアナの父だよ。
「あ、いえいえ、当然のことをしたまでです」
俺は緊急電報に実装されてもおかしくない定型文を返す。こういう場合の適切な返答を俺はこれ以外に知らない。あと、心臓マッサージは特殊な蘇生術ではない。
「あのー、どうやって、お、いや、わたしをここまで?」
「馬車で運ばさせてもらったよ」
え、寝たまま? いやまあ、確かにそれ以外考えられないが。それにしても車ではなく馬車。文明が未発達な世界なのだろうか?
「コルドト村で丁度仕事があって、リアナとあの二人がコルドトの森を散策したいというから一緒に馬車で連れて行っていたんだ。あの森は命と水の源として有名で、遺骨を埋めれば必ず再びこの世に生を受けることができるという言い伝えもあるくらいで危険な魔獣も少ないんだ。だが、少しばかり油断が過ぎたようで、リアナが襲われる事態になってしまった。君には迷惑をかけたね」
そう言って、アーネストは自嘲気味に笑った。
「えっと、それであなたは、市長さん、ですか」
話を変えようと、俺は軽く流してしまったアーネストの自己紹介を思い出して尋ねる。
「ん、ああ、ヴェルダ市の市長をしている。これでも一応下級の地方貴族だ。たしか、君の住所もこの市内だっただろう?」
そうだ、そういえば確かあのカードの住所の欄にヴェルダとかそんなことが書いてあった気がする。
「はい。そうですが……」
貴族が市長をしている、という言葉に俺は少しばかり困惑した。市長なんて、日本でも25歳以上なら誰でも立候補できる役職だ。そもそも貴族というもの自体、歴史の授業かファンタジーでしか聞かない単語である。
そんな俺の一瞬の沈黙をどうとったのか、男は言い訳するように軽く手を振った。
「あ、いや、すまない。寝ている間に勝手に市民証を拝見した。というか、リアナに渡されたんだが……」
市民証と言うと、あのカードの事か。
「それでだな、その……」
「どうしたんですか?」
言いにくそうに口ごもるアーネスト市長に、俺は優しく問いかけた。
「君の市民証を見て、一つ頼みたいことがあるんだが……」
「わたしにできる事でしたら、なんなりと」
「……その、リアナの、家庭教師になってやってくれないか?」
「え?……」
突然の申し出に、しばし俺は言葉を失った。というかこのタイミングで頼むことか、それ?
戸惑いを隠すこともなく顔に表した俺を見て、アーネストは焦ったように取り繕う。
「いや、言いたいことはわかる。こんなの、娘の命の恩人に頼むようなことでもなければ、14の女の子に頼むことでもない。それはわかっている……だが、どうか、この無理を聞いてはくれないだろうか」
だんだんと早口になる市長に俺が戸惑い答えに窮していると、一人勝手に興奮して語調を強める市長。
「リアナをラトリアル魔法学院に行かせてあげたいんだ」
は? 魔法学院?
急に飛び出してきたファンタジーワードに、俺は思わず眉を
そういえば、さっきも魔獣とか言ってたな。
こうなってくると、ここが本当にゲーム的ファンタジー世界である可能性を考えなければいけなくなってくる。そうでなければ、目の前のこの男の頭がおかしくなっているか、だが。
そしてそうであった場合、さっき口にしていた雷獣という生物も、ハクビシンの事ではなく妖怪の方であるという可能性が出てくる。
この世界にまつわる新事実を前に思考をだんだんと逸らしていく俺を尻目に、男はさらに捲し立てた。
「実は、前まで家庭教師を頼んでいた知り合いの男が先日突然
そんなものなのか? 貴族と言えばパンの代わりにお菓子を食べている姿が頭に思い浮かぶが、皆が皆そうというわけではないらしい。というか、パン代わりにお菓子を食べるのは貴族では無くて女王か。
「家庭教師稼業なんて、それなりに家柄のある人間しか普通はしないものだ。だから、自ずと費用も吊り上がる。前みたいに知り合いに頼めればいいんだが、なかなかうまく見つからない。それに……」
そこでふっと、アーネスト市長は視線を外した。
「リアナは、友達が少なくてね。リアナが5歳の頃に私の妻が早世した。そんな状態で庶民階級に交じって普通学校に通うのも、かえって負担になると、学校には通わせなかったんだ。普通学校で変に遠慮をされて友人内で疎外感を覚える、というのもよく聞く話だから。貴族向けの名門校に行くには、点数が足りなかった。しかし、そのせいで、リアナはほとんど友達がいない子になってしまった。今も、遊ぶと言えば従姉弟のサラちゃんやアーロン君ぐらい。それですら6歳も年が離れている」
多分、あの森にいた幼い二人の少年少女のことだろう。貴族であるがゆえに、孤立している、ということか。
「つまり、友達になってあげてほしい、と」
「…………」
アーネスト市長は頷きこそしなかったが、その沈黙が肯定を意味しているのは明らかだった。おそらく、その魔術学院、というのに行かせたい理由もそこにあるのだろう。
確かに家庭教師という形をとれば、身分はリアナの方が上でも、立場は教師である俺の方が上になる。そういう意味では、比較的対等な立場でいることができると言えるかもしれない。
「けど、わたしで役に立ちますか?」
「もちろんだ。庶民階級で中等学校を出ているだけでも優秀なのに、授業料免除の飛び級の天才、といえば、私も噂を聞いたことぐらいはあるよ」
そんなにすごいのか、この子。俺は改めてこの体の持ち主、ノエリアに一人感服した。
「けれどわたし、魔法の使い方よく知りませんよ」
これはここで言っておかないとまずいだろう。変な期待をされては困る。この体の子が魔法を使えるのか使えないのかは知らないが、少なくとも俺は使えない。
「そうか、普通科だと実践魔術は選択制だったか。いや、大丈夫だ。魔術は言ってみれば総合科目。それだけ基礎力が付いていて蘇生術まで使えるのなら、魔術を身につけることはそう難しくないだろう」
心臓マッサージは魔術じゃありません。そもそも魔術ってなんだよ。
「それで、どうだろうか、無理な頼みであることは重々承知しているのだが……」
懇願するような視線を向ける市長。だが、俺の答えは初めにそれを頼まれた時からずっと固まっていた。
「わかりました。こちらこそ、よろしくお願いします」
少しの恩でも全力で返す。それが、常見時久の信条なのだ。
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