第八話 僕が僕であるために

 志帆が飛んだ。



 およそ人間業とは思えない跳躍力で目前の少女が飛び上がったかと思うと、次の瞬間には彼女はこうやの視界から消えていた。


 身構える時間もなく、こうやは倒れた。

 彼の身体にした志帆のせいだ。


 ひどく頭を打った。

 仰向けとなったこうやは、彼の身体に跨る志帆を見つめた。全てがあっという間の出来事だった。


「何するんだ」身動きも出来ぬまま、消え入るような声で言った。

「見たんでしょ?」


 彼は口を閉ざす。

 つい先ほど目にした非現実的な光景が今も脳裏から離れない。


「まあいいか。どうせ今日のつもりだったから」

「今日のつもりって……なんだよ?」

「あなたをね、わたし達の仲間にしてあげるの」


 激突の衝撃でこうやの全身は麻痺していた。

 震える手で志帆に触れる。志帆の腹回りを両手で掴むが、彼女はびくともしない。志帆の体重はこうやよりも軽いはずだが、彼女はまるで石像のようだ。


「君は一体、何者なんだ?」こうやは訊いた。

「わたしは」少し考えてから、「わたしはくらげ、かな。こうや君の言ってた、死なないくらげ」

「え?」

「くらげ。こうや君ももうすぐくらげになるのよ」志帆は微笑む。

「――え?」

「あなたはね、死にたいような顔をしてた。わたしは分かるの。死にたがってる人を見れば、すぐに分かる。嗅覚ね。そうやってずうっと、今まで探してきた。あなたが生まれてくるよりはるか昔から、ずっと。死にたい人、支配されたい人、もうこの世なんてどうだっていいって顔をしてる人を探すの。すぐに分かる。そういう人は、何かを待ってる目をしてる。つまらない日常を破壊してくれる他人の出現を待ってる目をしてるの。わたしはこれまでも、そんな人を見つけては餌にしてきた。あの子だってそう」と志帆は冷凍庫に目をやった。


 こうやは冷凍庫を見ようとはしない。


「だからわたしが救ってあげたの」

「君は最初から、殺すつもりで僕に声を掛けたんだ……」

「うーん」彼女は首を傾げる。「まあ、そういうことになるのかな」納得のいかないような口ぶりだ。


 こうやは裏切られた気分だった。

 恋心がついに報われた、なんて一瞬でも感じた自分がとんでもなく馬鹿者に思える。

 彼女になら人生を捧げてもいい。彼女にだったら、殺されたっていい。そんなことさえ考えていた。どれだけ愚かなんだ。自分が嫌になる。彼女はそもそも僕に好意など抱いていなかった。僕のことを一人の男だとみなしてなんかいなかったんだ。だが、よく考えればそれもそうだ。だって僕は、誰かに必要とされるような人間じゃないんだから。僕はなんだから。そうだよ、自分の身分をよく思い出せ。

 分不相応にも、僕は恋をしてしまった。

 その結果がこれだ。


「僕を殺してどうするんだ?」

「あなたの希望する通り、この世界から救い出してあげるの。それに、あなたは勘違いしてるかもしれないけど、ただ単に死ぬんじゃない。生まれ変わるの。年老いたくらげが若返るように」

「僕を殺して、死体を冷凍するのかい? それに何の意味があるっていうんだよ」こうやは野球少年の姿を思い浮かべる。悪夢のような、あの姿を。

「まさか、冷凍しておくのが目的じゃない。今、彼はただ眠ってるだけ。もうすぐ起きる。生まれ変わるの。その時を待ってる」

「さっぱり分からない」

「きっと分かる。そのうちにね。いや、もうすぐに」


 そう言うと志帆は片手でこうやの首を絞めた。


 とんでもない力だった。

 彼の喉の隙間から、蚊の鳴くような空気音が漏れた。


 こうやは一瞬で死を覚悟した。


 これまで何の希望もなく、友達もなく、特にこれといった目的もなく生きてきた。無感動な日々を送ってきた。そんな風にして日々を漫然と過ごすのは、ほとんど“死”に近い状態だ。そう思っていた。

 だが違った。



 本当の死はもっとリアルで、力強い。



 生きたい。

 彼の肉体が、全神経が、反射的に死に抗った。


 こうやは暴れた。志帆から逃れるため激しく身体を動かす。両脚をばたつかせ、のしかかる彼女を殴りつける。

 しかし志帆は微動だにしない。彼女は首を絞める力をさらに強める。このままだと彼女の指が首の皮膚を突き破ってしまうんじゃないか。こうやは恐れた。

 必死に足掻く彼は、意図せず足元のテーブルを蹴り上げた。テーブルは音を立てて倒れ、上に載っていた筆記用具類が床に散乱した。


 水族館での“キス”の時のように、志帆はこうやの首筋に顔を近づけた。

 彼の血を吸うためだ。


 むずかる赤ん坊のようにこうやは抵抗を続ける。

 なんとか起き上がろうと、両手を無闇に泳がせる。手が虚しくカーペットの上をするする滑る。右手が冷たい物体に触れた。彼はその物体を掴む。細長い柄のようなものだ。こうやはそれが何なのかすぐに分かった。

 レターオープナーだ。金属製で、ナイフのように先が尖っている。

 彼はそれを逆手に握った。


 思ってもない幸運が彼の手の中に舞い込んだ。

 これはチャンスだ。それも、最後のチャンス。この機会をみすみす逃せば、あとはない。それはこうやにも重々分かっていた。


 志帆の顔が目の前に迫っている。


 こうやは柄を握る力を強める。


 彼女は可愛らしい唇を開く。

 先の尖った二本の鋭い犬歯が露になる。



 今だ。



 こうやは志帆の首にレターオープナーを勢いよく突き立てた。


 血が噴き出した。

 彼は返り血をまともに浴びる。血は土砂降りの雨のようだ。彼の顔はびしょ濡れになる。


 志帆は野太い声で叫ぶ。まるで犬の遠吠えだった。

 まさかの反撃に彼女は両目をひん剥く。狩りに失敗した飢えた獣。恨みがましい目で眼下の獲物を睨みつける。


 押さえつけられる力が弱まったのを感じたこうやは、すばやく身体を横向きに回転させて志帆から逃れることに成功した。

 レターオープナーはすでに彼の手から離れていた。いつ手放したのか憶えていないが、探すつもりはなかった。とにかくここから逃げる。今はそれだけだ。

 彼は立ち上がった。苦しみもがく志帆を見下ろす。


 跪いた彼女は首元に手をやり、出血を抑えようとしている。だがその試みは上手くいっていないようだ。血が指の間から溢れ出ている。バルブを全開にした蛇口から流れる水みたいだ。


 こうやは彼女に背を向けると、部屋の出口へと急いだ。

 こんな時だというのに、脚がふらふらして思うように動いてくれない。身体のあちこちが痛いし、目が沁みる。


 ドアに辿り着いた彼は、ドアノブを力まかせに掴んだ。

 手が濡れているせいで滑るが、彼は乱暴にドアノブを捻る。ドアを開けようとしたまさにその時、背中に冷たい感触があった。何者かの手がこうやの背中に触れている。

 反射的に振り返る。


 志帆ではない。


 そこにいたのは野球少年だ。

 冷凍庫で眠っていたはずの少年が、すぐそこに立っている。


 野球少年は半眼で、眠りと覚醒の間にいるような妙な表情を浮かべていた。裸のその少年は、こうやに向かって物欲しそうに片手を伸ばす。

 先ほどまで死体だった少年はのっそりとした足運びで、さらにこうやとの距離を詰める。


 こうやは驚きのあまり背中をドアに張り付けたまま、動くことが出来ない。

 

 少年の手がこうやの左肩に置かれた。

 ひんやりと冷たく、硬い手。悲鳴を上げる代わりに、こうやは激しく息を吸った。


 死体の力は強烈だった。想定外の力でこうやの肩を圧する。こうやはその場にへたり込んでしまう。


 焦点の合わない目をした野球少年は、意志の片鱗すら読み取ることの出来ない顔つきでこうやを見る。

 こうやは唖然としたまま、野球少年を見つめ返す。


 全裸の死体と膠着状態に陥るこうや。

 彼の胃は痙攣している。吐きそうだ。


 凍り付いた時間が永遠に続くかと思われたが、ふいに野球少年はこうやから目を逸らし、後ろを振り向いた。

 こうやは彼の視線を追った。


 血まみれの志帆がいた。

 志帆は傷口から血を流すがままに、直立していた。


 彼女は野球少年に向かって首を横に振った。何も言わず、ただ刃物のような鋭い視線を少年に送る。

 裸の少年は静かに後ずさった。


 志帆は悠然とした態度でこうやに歩み寄った。彼女の細長い指の先端から血が垂れている。

 彼女は、生徒を叱責する教師のような目でこうやを見下ろした。


 こうやには、もう抵抗する気力が残っていなかった。


 僕も、もうすぐあの野球少年みたいになるんだな。

 夢の中で思考するみたいに、彼はぼうっと考える。全身から力という力が抜け、諦観がじっとりと染み渡る。



 恋なんてするんじゃなかった。

 彼は目を閉じた。



「自分を明け渡す準備をして」


 それが、こうやがこうやである頃に彼が聞いた、最後の言葉だった。

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死なないくらげ タク・ミチガミ @t-michigami

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