第七話 志帆の部屋の男

 快楽にはうしろめたさがつきものだ。



 さきほどの行為の余韻がまだぼんやりと彼の中に残っていた。


 数歩先を行く志帆を追いかけるように、こうやは歩いていた。

 まるで月の上を歩いているような感じがする。現実感がまるでない。時折首の傷跡がうずき、それだけが唯一彼を現実に引き戻す役目を果たした。


 志帆の家はもうすぐそこだった。



 くらげの水槽を離れてからずっと、こうやは――志帆の言う――あの“キス”を頭の中で何度も反芻していた。おかげでその後目に入った生物のことなど、ほとんど彼の記憶には残らなかった。

 カクレクマノミもシュモクザメもペンギンも、ただ彼の視界を右から左に通り過ぎては消えていった。


 志帆の行為は彼の理解をはるかに超えたものだったが、彼女が首に吸いついてきた時の事を思うと、反射的に彼の身体は沸騰したように熱くなった。

 こうやは志帆に言い知れぬ恐怖を抱いていた。だが同時に、もう一度あの体験をしてみたいという気持ちもあった。その両者はともにかなりの引力を有しており、彼を真っ二つに引き裂いた。


 深海魚の泳ぐ小さな水槽を真剣に覗き込む志帆の背中を眺めながら、こうやは途方に暮れた。



 水族館を出て電車に乗り、二人の自宅近くにある駅に着いた頃にはすでに陽は暮れかけていた。

 駅の階段を降りた二人は、そのまま志帆の家へと向かった。



「ここで待ってるよ」


 志帆の住む団地の敷地に足を踏み入れるとすぐにこうやは言った。


 古びた団地だった。

 くすんだ灰色をした巨大な壁めいた建築物が何棟も建ち並ぶ。建物に挟まれるようにして存在する駐車スペースでは、自動車達が肩身の狭い思いをしていた。巨大な壁の影が落ちるそのスペースはやたらと暗く、生活に疲れた住人の溜息が滞留しているかのような重苦しい空気で満ちている。


「なんで?」志帆が訊いた。

「なんでって……。部屋の前までついていくのも、なんだか悪いし」


 志帆は不思議そうな顔をする。


 こうやは、志帆からCDを借りるためにここまで来ていた。こうやのお気に入りのバンドが先日発表したばかりの新しいアルバムを、彼女はいち早く手に入れていたのだ。


「っていうか、上がっていかないの?」

「え?」

「せっかく来たんだし」

「CDを借りに来ただけだから……。それに、ご両親とかだって……」

「親はいない」彼女はきっぱりと言った。

「いやでも、だからって」


 大丈夫、と志帆はこうやの手を強く握ると、彼を引っ張っていった。


 手を繋いだまま二人は団地の階段を上った。

 階段に響き渡る足音が、こうやの鼓動と同期する。



 こうやの心はいまや完全に、志帆のものになっていた。



 彼は、志帆と出会うまでの自分を思い返した。

 透明人間だった――彼は思う。

 僕はいつの間にか世界から置き去りにされていた。幼少時代の思い出をガムみたいに味がなくなるまで噛み続け、古ぼけたベビーベッドから世界を垣間見る僕は、ただの意気地なしの傍観者だった。このまま僕はただなんとなく息をし続け、そしてただなんとなく死ぬんだ。そう思っていた。スーパーの陳列棚から撤去される賞味期限切れのしらすみたいな、無意味な死。僕の“生”も“死”も、この社会には何の影響も与えず何の爪痕だって残さない。だって、僕という存在は何の熱も帯びていないんだから。

 だけど今は違う。僕の身体は燃えている。志帆の手を握る手は、燃えるように熱い。どうせ死ぬのなら、冷たいしらすのようにではなく、燃えるように死にたい。どうせいつか孤独に死ぬくらいなら、今この瞬間、志帆に殺されたっていいくらいだ。


 二人はドアの前に立った。


 志帆はドアノブにゆっくりと鍵を差し込み、回した。鍵が鍵穴の中で擦れる小さな音が、過敏になっているこうやの聴覚をいたずらに刺激する。往年のホラー映画のような音を立てながら、金属製の重い扉が開いた。


「どうぞ」

「お邪魔……します」ばつが悪そうに敷居を跨ぐこうや。


 玄関からリビングルームを抜け、通されたのは志帆の寝室だった。


 生活感がまるでないや。それが彼の抱いた第一印象だった。


 ベッド、一人掛けのソファ、小さなテーブル、本棚。家具はそのほとんどがシンプルなデザインのものばかりだ。色彩はなく、アイボリー、もしくはマットなブラックの家具ばかり。カーテンすら黒い色をしている。古びた団地とは思えない、モダンな部屋だった。壁にアイドルのポスターなどは張られていないし、ぬいぐるみだって何一つ見当たらない。


 部屋に彩りを加えているものといえばただひとつ、壁に飾られた絵画のみだった。


 額装されたその絵画は、小川に浮かぶ女性を描いたものだ。

 ドレスを着用したまま眠るような格好で川に流される彼女は、その奇妙な状況にも関わらず、恍惚とした表情を浮かべている。


「少し待ってて」


 志帆はそう言い残し、寝室を出て行った。


 一人になるこうや。


 落ち着かない。

 女の子の部屋に招かれるなんてこれが初めてだ。


 親はいないと言っていたけど、もし仮に両親が帰宅したら、僕はどうすればいいんだ? 気の利いた挨拶が出来る自信なんて僕にはないぞ。自分のことを、彼女の親になんて説明すればいいんだ。志帆さんの友達? それとも……。こうやは浮かんできた考えを即座に払いのける。


 そもそも彼女は、僕に何を求めているんだろう。僕を寝室に上げるなんて、どういうつもりなんだ。彼女なりの、なんらかの態度の表明のつもりなのだろうか。だとしたら、はたして僕は期待されている役回りをちゃんと務めることが出来るのか。それとも、全ては僕の考えすぎか。


 こうやは浅い呼吸を繰り返す。


 つーんとした匂いがこうやの鼻に残った。

 そういえば、さっきから消毒液のような匂いが漂ってる。女の子の部屋って、もっと甘い香りがするんだと思ってたけど。彼は首を捻る。

 それに、ずっと重低音のノイズが部屋に響いている。エアコンの音だろうか。彼はエアコンに目をやったが、それは作動していない様子だ。

 消毒の匂いと、機械の作動音のようなノイズ。病院の待合室にいるみたいな気がしてくる。


 窓際に配置されたベッドの脇に、大きな白い箱のようなものがあった。

 巨大なその箱は、モダンな雰囲気の家具とは趣を異にしていた。フタのような上開きの扉があって、横長だ。形状は一般的なものとはだいぶ違うが、その質感から、冷蔵庫のように見えた。

 さっきから聞こえてくるノイズは、もしかしたらあの箱から出ているんじゃないか、とこうやは考えた。


 彼の読みは当たっていた。

 実際、それは冷庫だった。業務用の冷凍庫だった。


 志帆はまだ来ない。

 部屋の隅で正座をしていたこうやは、姿勢を崩しその場に立ち上がった。足がじんじんと痺れている。

 彼は、冷凍庫に近づいていった。


 足音を立てないように進む。志帆の寝室を勝手に歩き回るのはなんだか気が引けるが、ノイズの発生源を確認したらすぐに戻るつもりだ。


 ソファやテーブルなどに触れてしまわないよう、こうやは慎重に歩いた。

 黒いテーブルの上には、筆記用具類が整然と置かれていた。万年筆にノート、それにレターオープナー。レターオープナーは金属製で、ナイフのように先が尖っていた。柄の部分には精緻な装飾が施されていて、高級感が漂っている。志帆が器用な手つきで手紙の封を開ける姿が、彼には容易に想像できた。


 そしてついに冷凍庫を目前にした彼は、ノイズの発生源はやはりここだと納得した。

 巨大な白い箱は、ぶんぶんといた。

 上開きの扉に片手を置いてみると、その箱がノイズと共振するかのように細かに振動しているのが分かった。


 何が入っているんだろう。

 好奇心を駆られた彼は、冷凍庫の扉に手を掛けた。


 勝手に開けてしまっていいわけない、と分かってはいる。でもだからといって、「この中には一体何が入っているんだい?」なんて志帆に直接訊くわけにもいかないだろう。


 ちらっと覗くだけ。それくらいだったら、許されるんじゃないかな?


 こうやは耳を澄まして、志帆が部屋に近づいてきていないかどうか確認する。

 そして冷凍庫の扉を、静かに開けた。



 目が合った。



 冷凍庫内の冷気のせいか、はたまた冷凍庫に入っていた中身がそうさせたのか、こうやには分からなかった。いずれにせよ、彼は一瞬でしまった。

 だが本当に凍っているのは、庫内からこうやを見つめる男の方だった。


 冷凍庫には、ひとりの人間が入っていた。

 腕や脚は不自然なほどコンパクトに折り曲げられ――折りたたまれ、と表現したほうが正確かもしれない――狭い庫内に無理やり収納されている。

 それは少年だった。

 丸刈りの少年だ。幼さの残る顔に、痩せ型の身体。衣服は着用していない。肌は白く、若干灰色がかっている。古びた陶製の人形のような濁った白だ。肌には張りがなく、ゼリーのようにぶよん、としている。その肌は、こうやに腐りはじめの鶏肉を想起させた。目が合ったと思ったのはこうやの勘違いで、実際には、凍った少年の目は虚ろに宙を見ているだけだった。


 知ってる顔だ。こうやは息を止めた。

 どこかで見たことがある。だけど、誰だか思い出せない。


 彼は死体から目を離すことが出来なかった。

 恐怖、混乱、それに正体不明の罪悪感が押し寄せてくる。吐きそうだ。


 思い出せ、思い出すんだ。

 こうやは記憶の中から、必死に丸刈りの少年を探す。

 なぜこんなところに少年の死体があるのか、自分はこの恐るべき事態にどう対処すべきなのか。次から次へ疑問が湧いてくるが、とりあえず今はそれらを一旦頭の片隅へと押しのけ、彼は少年の正体を思い出す作業に没頭した。何か単純なことに意識を集中してでもいない限り、正気が保てなくなってしまいそうだったからだ。


 すると電球が切れる時のように、何の前触れもなく唐突に答えがきた。


「そうだ」震える声で呟く。


 青羅中の生徒だ……。

 十日ほど前に失踪し、以来行方不明となっている一年B組の野球少年。


 部屋のドアが音もなく開いた。

 コーヒーカップを手にした志帆が部屋に入って来るのを、こうやは気づいていない。彼はまだ、自分と野球少年はこの部屋にでいるものとばかり思っている。



 志帆の発した言葉を耳にして、こうやは肝を潰した。



「見た?」彼女は言った。


 彼は声もないまま振り返った。声を掛けられた際、驚きのあまり冷凍庫の冷気を一気に吸い込んでしまったせいで、彼の肺は冷たくなっていた。


「見た……の?」志帆は同じ質問を繰り返す。



 こうやは、一度だけ頷いた。

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