第六話 くらげ

「誰もいないね」


 志帆の発した小さな声が、薄暗闇の空間に響く。



 くらげが浮いていた。

 青白く幻想的に照らされた水槽の中、まるで重力なんて存在しないかのように。



 水族館。

 半透明なゼリー状の生命体達は一種独特の悲壮感を漂わせている。活発に動き回るでもなく、作業に没頭するでもない。ただなんとなく浮いている。目的もなく、情熱もなく。


 まるでデジャブだ。こうやは思う。

 小説に書いたはずの光景が今まさに目の前に広がっている。小説の中に入ってしまったみたいな気分だ。


「ここに来るの、久しぶりでしょ?」

「ああ、うん」彼は答える。

「懐かしい?」


 こうやの返答はない。彼はくらげの水槽から目を離さない。


「ねえ」志帆は彼の肩に触れた。


 こうやは飛び上がりそうになった。彼女の手があまりに冷たかったからだ。

 そんな彼の反応を楽しむような目つきで、彼女は細い指先でこうやの首筋をくすぐった。


「聞いてる?」


 ああ、と笑って見せるが、こうやはとても冷静ではいられなかった。


 この状況でキスをするなんて、あの小説の登場人物はどうかしてるな、と彼は思った。あれを書いた張本人は会話すらまともに出来てないっていうのに。


 授業中の暇つぶしに書いた小説と現実とは、まるで違う。


 これを“デート”と呼んでいいものなのかこうやには分からなかったが、いずれにせよ異性と二人で水族館に出掛けるということ自体、彼にとっては一大事だった。それも、彼が長いこと憧れてきたとびきりの美少女が相手だ。平常心でいられるわけがない。


「昔来た頃と、変わった?」志帆は訊いた。

「変わってない」と、こうやは辺りを見回す。「まったく変わってないよ。不思議なくらい」

「そうなんだ」


 彼は水槽に一歩近づく。


「この中にいるのは、きっとあの頃とはまったく違うくらげ達だろうけどね」

「どういう意味?」志帆は首をかしげる。

「幼い僕がここで目にしたくらげ達はきっと、とうの昔に死んじゃっただろうな、って思ってさ」

「前に来たのは十年くらい前?」

「そうだね。だからたぶん、あの時のくらげはみんな死んじゃったはずだよ」こうやは一瞬黙った。「でも……、それなのに僕の目にはこの場所が、あの頃と同じように……まったく同じように映る。そのことを考えるとなぜだか、寂しいような気がする」


 少し考えてから、志帆は口を開いた。


「この子達が、“死なないくらげ”ならいいんだけどね。だったら、寂しくないでしょ?」


 そうだね、とこうやは笑みを浮かべ、志帆を見る。

 志帆の顔は彼のすぐ目の前にあった。


「ねえ」


 彼女の息の匂いがした。


「くらげに刺されたことある?」。

「いや――」こうやはゆっくりと首を横に振る。「くらげに刺されたことは……一度も……」


 完全にデジャブだった。僕が小説に書いた会話そのものじゃないか。こうやは息が止まる思いがする。

 彼はただじっと、志帆を見つめることしか出来ない。


 白いブラウスに、えんじ色のワンピース。黒く長い髪は柔らかなウェーブを描いて肩に落ち、前髪は眉の上で一直線に切り揃えられている。幼さの残る顔の輪郭、吊り上がった目。なぜかその目は彼に老人のそれを思い起こさせる。遠慮がちに小さな鼻。湿った、大人っぽい唇。彼女の顔立ちはアンバランスで、そして完璧だった。


 志帆はこうやの手を握った。

 その冷たさに、彼の手は痺れた。こうやの心臓まで伝わってくるほどの冷たさだった。


「ねえ、こうやくん」彼女は言う。「なぜ、くらげは刺すんだと思う?」

「生きる、ため?」

「そうね」


 こうやは志帆の目に吸い込まれてしまいそうだ。

 彼女の黒い瞳孔は、まるでそのまま宇宙の深淵にでも繋がっているかのような神秘性を帯びている。見つめているだけで、この世の真実を垣間見てしまったような気持ちになる。

 それも、黒い真実を。


「わたしもね」志帆もこうやから目を離さない。「生きるために刺すの」


 そう言うと彼女は上半身を傾け、青白い顔をこうやへ近づけた。彼女の長い髪は揺れ、熱を帯びたこうやの頬にさらりと触れる。


 鼻と鼻が触れてしまうくらいの距離に志帆の顔がある。

 こうやは息を止める。



 彼女の唇が、こうやの肌に触れた。



 こうやは、首筋に彼女の体温を感じる。

 志帆の柔らかい唇が、こうやの首筋を這うようにじりじりと動いた。志帆の荒い鼻息が彼の素肌をくすぐる。そして彼女は唇をゆっくりと開く。柔らかな何かがこうやの首を湿らした。それは彼女の舌だった。こうやの緊張はピークを迎える。筋肉は硬直し、理性は溶けていく。


 いきなり、首に思い切りボーリング玉をぶつけられたような衝撃があった。激痛がこうやを襲う。


 緊張の糸が、ぶちりと切れた。

 あまりの痛みに、こうやの意識は遠のく。頭の中は空っぽ、肉体は感電したように勝手に震えてしまう。


 だがすぐに痛みは幻のように消え去った。

 次に彼を襲ったのは恍惚感だった。

 こうやの身体から余分な力がすべて抜けていく。さながら海の中を漂っているようだった。重力のない世界。僕はくらげだ。死にゆくくらげ。僕はただ、運命に身を任せていればいいんだ。



 “自分”が消えていく、心地よい絶望感。



 志帆の唇は、こうやの首筋に強く押し当てられていた。

 彼女の鋭い二本の歯は、彼の皮膚を突き破ったままだ。こうやの首につけられた傷口からは、生温かい液体が溢れ出ている。

 志帆はそれを夢中で啜った。



 やがて行為を終えた彼女は、こうやの肌の上でゆっくりと唇を閉じた。

 彼女の口からこぼれた血液が一筋、こうやのTシャツの中につーっと入り込んだ。


 志帆はバッグから白いハンカチを取り出し、口を拭った。水族館内の淡い照明の下では、ハンカチに付着した汚れはあまり目立たない。彼女はそれでこうやの首筋の血も拭き取った。


 こうやの全身はいまだ痺れていた。

 経験したことのない強烈な快楽の余韻が彼の神経を支配していた。これがずっと続けばいいのに。陶酔の中で、こうやは深く息を吐く。


 夢見心地で彼は志帆に質問した。


「僕に一体、何をしたの?」



 彼女は言った。


「キスよ」

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