第五話 死なないくらげ

 結論から言うと、こうやは志帆の指を舐めることはしなかった。


 彼女は試すような目でこうやを観察していたが、彼が行動に出ないと悟ると舌を出し、濡れた人差し指を自分でぺろりと舐めた。



 そして、「美味しい」と言った。



 女の子のすることには謎が多いや。こうやは息を吐いた。


「正解は? 水筒には何が入ってるの?」彼は訊いてみた。

「今度教えてあげる」

「そんなに珍しいものなの?」

「うーん、珍しくはないかな。というか、その逆。でも、飲む人はあんまりいない」

「何それ。なぞなぞみたい」こうやは笑顔を取り戻す。


 志帆は水筒をバッグの中へしまった。


「そういえば、昨日テレビで面白いことやってたんだ」彼は自ら話題を提供する。「くらげのことなんだけど」

「くらげ?」

「うん、くらげ。最近の研究で分かったみたいなんだけど、どうやら死なないくらげがいるんだって」

「死なない?」


 こうやは大げさに頷く。


「普通のくらげと違って、体がすごく硬いとか?」

「“死なない”というのは、外敵からの攻撃に強いって意味じゃなくてね」彼は昨日のテレビ番組を思い出しながら解説する。「そのくらげは、若返ることが出来るらしいんだ」

「整形するベテラン女優みたいに?」

「ああ……、いやなんか違うかも」こうやは悩む。「成長してカエルになったのに、またおたまじゃくしに戻っちゃう、みたいな感じかな」

「老いても若い体を取り戻せる、ってこと?」

「そういうこと。しかもね、それを何度も繰り返せるんだって。そういう種類なんだって」

「だから“死なない”って言われてるのね」

「その特性を人間にも活かせないものか、今研究されてるらしい」


 志帆は感慨深げに首を傾けた。


「もし本当に死を克服出来たとして、こうやくんは永遠に生きていたい?」


 研究が進んだ結果として人間がずっと健康でいられるのならそれはとってもいいことだ、くらいの見解しか持ち合わせていなかった彼にとって、志帆の質問は予期しないものだった。


 こうやは言葉に詰まる。

 少ししてから、喋り始めた。


「僕はもちろん、死にたくはない。ただ、だからといって永遠に生き続けたいかと問われると難しいな。この世界から知り合いが誰もいなくなって、世界はどんどん変わり続けて、それでも生きていきたいかどうか……」


 こうやは想像する。家族や友達がいなくなった後の世界のことを。孤独な世界を。どこにも自分の居場所のない世界を。

 それは恐ろしく、そして寂しい。


 だけどよく考えてみれば、今だってあまり変わりないような気もする。お父さんは長いこと家に帰ってきてないし、お母さんとだって近頃はあまり言葉を交わしてない。それに友達だって、僕にはほとんどいない。真の友達なんて、たぶん一人も。


 僕は元々孤独だし、そもそも僕には居場所なんてないじゃないか。



 ――本当に?



 彼は志帆を見た。


「ん?」と彼女。

「いや、なんでも」こうやは、はにかんだ。


 彼女とこうして過ごしていられる限りは、生きていたい。彼は強くそう思う。


「世界中のみんなが死なないんだったらいいかもしれないけど……。ただ、永遠って考えると、やっぱりちょっと息が詰まるかな」

「そう? わたしはずいぶんと長いこと生きてきたけど、全然平気」


 はは、とこうやは乾いた笑いを漏らす。この時、彼は志帆の言葉の意味を半分も理解していなかった。


「人間はいつか死ぬ。それはきっと、避けられないさ」

、ね」志帆は言う。


 ふと、こうやの昔の記憶が蘇った。


「どうかした?」彼の様子を見て志帆が訊いた。

「子供の頃家族で水族館に行ったことがあるんだけど、その時のことを急に思い出しちゃってね」

「最近のこと?」

「かなり前だよ。最近は家族で出掛けたりすることなんてないしね。お父さんは何年も前に家を出て行ってそれきりだし、お母さんもこのところ忙しくて。僕が幼い時だって、僕達三人は仲のいい家族ってわけじゃなかったけど。だから余計に、みんなで水族館に行ったのは僕にとって大切な思い出でさ」

「こうやくんがいくつくらいの時の話?」

「たぶん、幼稚園に入るより前のことだったかな。正直、断片的な記憶しか残ってないんだけどね。お父さんの運転で、僕達は車で水族館へ向かった。その途中ドライブスルーに寄ってハンバーガーを買って、車内で食べたりした。そんな些細なことはやけに覚えてたりするんだ。車の中がフライドポテトの油の匂いで充満してさ。僕にとって、ポテトの匂いは幸せの象徴だった」

「素敵だね。でもなんで急にそんなこと思い出したの?」

「分からないけど、もしかしたらくらげのせいかもしれない」

「くらげ?」

「そう。あの日、みんなでくらげを見たんだ。くらげの水槽の前で、僕は二人と手を繋いでた。二人の手があったかくてね。あの時の感触と光景が、今でも妙に脳裏に焼きついていて」


 そういえば授業中に書いた小説にもくらげを出したんだっけ、とこうやは気づく。志帆をモデルにした少女が登場するあの小説だ。


「くらげ、か」志帆は静かに呟き、「それから水族館には行ってないの?」と訊いた。


 こうやは首を横に振った。

 彼には遠出する機会がほとんどなかった。思えば、彼はいつも一人だった。


「今度の土曜日」彼女は唐突に言った。

「え?」



「一緒に行こうよ、水族館」

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