第四話 舐めてみる?

「おーい西野! 何やってんだよ」


 クラスメイトが叫んだ。



 こうやは我に返る。

 彼の両脚の間を、野球ボールが猛スピードで転がっていった。



 体育の授業。こうやはライトを守っていた。


 野球に集中すべき時、彼は昨日の図書館での出来事を考えていたのだった。

 こうやは急いでボールを追いかける。

 ボールが自由を謳歌している間にも、相手チームの二人の走者は全速力でグラウンドを駆けている。


 こうやはなんとかボールに追いつくと、すぐにそれを三塁に送る。

 だがアウトは取れず、走者の一人はすでにホームベースを踏んでいた。


「ぼうっとしてんなよ!」ピッチャーは怒鳴った。

「ごめん」彼は小さな声で謝る。


 今日のこうやは、ずっと心ここにあらずといった様子だ。一日中、志帆のことで頭がいっぱいだった。


 こんな気持ち、生まれて初めて。

 避暑地の別荘で迎える朝のようにすがすがしく、フルコースのフレンチを前にした時のように満ち足りた気分。だからクラスメイトからきつい言葉を浴びせられても、彼は平気でいられた。


 希望の光がこうやを燦々と照らしていた。


 学校が終わってもそんな状態は続く。

 下校時、前を歩く友人二人の会話に加わることが出来なくても、彼は孤独など微塵も感じない。背中に光を浴びるゆうきとのぶひろの姿が微笑ましく思えるくらいだ。


 帰宅してそそくさと着替えを終えると、こうやは今日も図書館に向かった。


 館内に足を踏み入れると彼はすぐに、志帆が来ているかどうか確認する。

 彼女はまだ来ていないようだ。まあいい。気長に待とう。

 こうやは外に出た。図書館の敷地内に設置されたベンチに腰掛ける。


 久しぶりに暖かな日だ。

 彼の眼前には申し訳程度に植えられた草木の緑が広がっている。思い切り空気を吸う。青臭い匂いがした。

 トラッカージャケットのポケットに手を入れると、小銭がじゃらじゃらと鳴った。このジャケットはここ数ヶ月ほど袖を通していなかった。今日の気温に合わせ、クローゼットから出してきたのだ。おそらく前回着た時に入れたお金がそのままになっていたのだろう。

 彼はポケットから小銭を出した。こうやの財政状況からして、悪くない額だった。


 こうやは自動販売機で缶コーヒーを買った。


 ベンチに戻った彼は、コーヒーを片手に春の予感を満喫した。

 道路を挟んだ向こう側には大きな川がある。川沿いの道を歩く人は今、数えるほどしかいないが、あと一週間もすればあの辺りは花見客で賑わうだろう。


 コーヒーは甘く、冷たかった。

 のんびりとした昼過ぎの時間が流れていく。


 川沿いを歩く一人の女性がいた。黒いハンドバッグを片手に、かなりの早足だ。どうやらこちらへ向かって来ているようだ。

 えんじ色のスカートが風に揺れるのが、彼の目に入る。



 志帆だ。



 こうやは瞬時に姿勢を正した。


 僕のこと、見えるかな。こうやは半分ほど残っているコーヒーを脇に置き、手を振ってみた。

 志帆は彼に気づき、手を振り返してくれる。

 こうやはベンチの端に座り直して彼女を待った。


 やがてやって来た彼女は、穏やかな笑みをこうやに向けた。


「やあ」彼は言う。「よかったら、座って」すんなりと誘えたことが我ながら驚きだった。

「じゃあお邪魔しようかな」


 志帆は彼の隣に座った。


「今日は暖かいね」とこうや。

「そうだね。気持ちいい」

「……うん」


 会話の穴を埋めるように、こうやはコーヒーに口をつける。


「あ、もしよかったら何か奢ろうか?」自分だけが飲み物を口にしているのを悪く思い、彼は提案する。

「ありがとう。でもいいわ。水筒を持ってきてるし」彼女は答えた。

「そっか」


 彼は缶コーヒーを啜る。


「いつもさあ、どんな本を読んでるの?」こうやは質問した。

「翻訳小説が多いかな。芸術系の本も好き。写真を眺めてるだけで楽しいし」

「好きな画家とかいるの?」

「ラファエル前派ぜんぱとか、かな」

「なるほどね……」“ラファエルゼンパ”って、なんだ?


 こうやはまたも缶を傾けたが、中身はもう残っていなかった。


「あの、古泉さんは――」

「志帆、でいいよ」

 戸惑うこうや。「志帆……さん?」照れているのが彼女にバレていないことを願う。

「何?」志帆は彼の目を覗き込んだ。「こうやくん」


 僕の下の名前、憶えててくれたんだ。

 自らの口が開きっぱなしになっていることに、彼は気づかない。


「質問は何?」

「ああ、そうだった。志帆さんはどこの学校に通ってるのかな、って訊きたくて。僕は青羅中なんだけど、学校で志帆さんのこと一度も見かけたことないから」

「わたしね、学校には通ってないの」彼女は言った。


 想定外の返答だった。

 もしかしたら彼女は複雑な事情を抱えているのかもしれない、とこうやは思った。詮索するのはやめておこう。


「これ、捨ててくる」と彼は立ち上がると、自動販売機の横にあるごみ箱まで空き缶を捨てにいった。


 ベンチへと帰る途中、こうやは志帆の背中をまじまじと見た。

 当たり前のように志帆の隣に戻ろうとしている今の状況が、なんだかくすぐったかった。


「お帰り」こうやが座ると、彼女は言った。

「ただいま」彼は答えた。


 口の中が甘ったるい。


「わたしも喉乾いた」志帆はバッグから水筒を取り出した。コップの付属しない、飲み口から直接中身を飲むタイプの水筒だった。


 志帆が水筒を口にするのを見るのは、初めてだ。


「それ、いつも持ち歩いてるよね」こうやは水筒を指す。

「ああ、これね」飲み終えてから彼女は言った。


 飲む前と飲んだ後で、彼女の唇の色に若干の変化があったように見受けられた。唇の色が、ちょっとだけ濃くなったようだ。

 もしかして、中身は水じゃないのかな。


「何が入ってるの?」彼は訊く。

「なんだと思う?」


 逆にクイズを出された。普通だったら非常に面倒くさく思う場面だ。

 だが志帆なら話は別だ。こうやは楽しくなってしまう。


「うーんと、なんだろう」たぶん色の強い飲み物だろうな、と彼は考える。「紅茶?」


 志帆は首を横に振る。


「違う? じゃあ、ぶどうジュース?」

「はずれ」

「まさか、コーヒー?」


 さてなんでしょう、とばかりに彼女はいたずらっぽく首を捻る。



「舐めてみる?」



 そう言うと彼女は、躊躇せずに人差し指を水筒の奥に突っ込んだ。指を湿らせ、外に出す。

 色づいた指先から雫が垂れる。


 志帆はその細い指を、こうやの口元に近づけた。


 目の前に差し出された、濡れた指。

 指先からは液体がぽたりぽたりと落ちている。それは木製のベンチを赤黒く染めた。


 女の子の指を舐めるなんて。そんなこと、僕には出来っこない。

 彼女は僕をからかっているのか? それとも……?

 こうやは志帆の真意を推し量るべく、彼女の表情を覗く。


 少女は、笑っていた。



 春の到来を告げる、生暖かな風が吹いた。

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