第三話 少女はやたらと気になる

 少女は挑発的な目をしている。

 彼女はこうやから取り上げたヘッドホンを自らの耳に当てると、目を閉じて音楽を聴き始めた。


 椅子に腰かけ上半身を後ろに捻った状態のまま、こうやはきつねにつままれたように少女を見守る。


 少女はしばし音楽を堪能した。その後満足げに頷き、ヘッドホンを外す。


「懐かしい」彼女は言った。少女の声は、こうやが想像していたよりほんの少しだけ低かった。滑らかで、大人っぽい声。

「え?」

「いい曲よね」

「……あ、うん」


 少女はヘッドホンをこうやに手渡す。

 彼はそれを惚けた表情で受け取った。


「音楽、詳しいの?」

「え? いや、まあ、そんなに……。好き、ではあるけど」


 ふーん、と少女は言い、こうやに背を向けた。そして貸し出し用のCDが並ぶ棚へと歩を進める。洋楽の棚の前で彼女は止まった。

 こうやはどう振舞えばいいのか分からない。とりあえず、座席から立ち上がる。


「普段どんなの聴く?」彼女は棚を眺めながら訊いた。

「パンクとか……、たまにニュー・ウェイヴとか」新米兵士のような佇まいで返答するこうや。


 そっか、と彼女。


 こうやは、さきほどから受け身の対応しかしていない自分を責めた。こっちからも何か質問しなきゃ。彼は言葉を絞り出す。


「あ、あなたは音楽、好き?」“あなた”って……。初めて言ったぞ。

「わたしは音楽だったら大抵どんなものでも好きかな。人間の体温が感じられる音楽だったら、なんでも」

「はぁ」


 少女は振り向いてこうやを見つめる。


「驚かせちゃったみたいでごめんね。きみのこと、図書館でよく見かけるからずっと気になってたんだ」少女は笑った。


 気に、なってた……?

 こうやの中で動揺がさざ波のように広がる。


「名前訊いてもいい?」

「え? あ、うん」こうやは唾を飲み込む。「西野。西野こうやだよ」

「西野くんね」


 少女に自分の名前を呼ばれた。

 彼は幼い子供のように頷く。


「えっと……」

「わたしは古泉志帆こいずみしほ」こうやの質問が終わるのを待たずに彼女はそう口にすると、視線をCDの棚に戻し、「なんかおすすめのアルバムある?」


 こうやは席から離れ、志帆の横に立った。


「そうだねえ」どれがいいだろう。彼は棚に隙間なく並ぶCDの背を眺める。だが気が動転しているせいで、背に印刷された文字が頭に入らない。バンド名やアルバムタイトルを意味するアルファベットの大群が、こうやの目から脳をびゅんびゅん素通りしていく。

 こんなんじゃいくら経ってもおすすめのアルバムなんて見つかりっこない。


 こうやは記憶から探ることにした。今まで聴いたことのあるアルバムで、印象に残っている作品を頭の中に羅列する。

 少女が気に入ってくれそうなアルバムは何だろう。紹介するなら、なるべくおしゃれっぽいやつがいい。


 悩んだあげく適当な一枚を選んだ彼は、今度は現実の棚の中からそれを探す。


「これなんかどう?」こうやが引っ張り出したのは、ギターポップ系バンドのアルバムだった。こうやはギターポップなどあまり聴かないのだが、“おしゃれ感”を最優先にした結果だった。


 志帆はCDを受け取り、見つめた。

 スナップ写真風のジャケットで、全体が淡いピンク色がかっている。窓辺でまどろむ女性を写した写真だ。


「このバンド、知らないかも」

「結構いい感じだよ」

「そうなんだ。じゃあ聴いてみよ」そう言うと志帆はCDを手に机へ向かった。


 彼女はこうやの席の隣に腰を下ろす。ヘッドホンをつけ、CDを再生し始めた。


 こうやは自分の席に戻る。

 とりあえず彼もヘッドホンを装着してみるものの、パンクなんか悠長に聴いている場合ではなかった。


 すぐ隣に志帆がいる。

 彼にはその事実が、にわかには信じられなかった。


 彼女との距離がこれほど近いのも初めてなら、会話をしたのも初めてだった。彼女の名前だって今さっき知ったばかりだ。隣からは彼女の香りが漂ってくる。あまりに多くの情報が一気に押し寄せ、彼は圧倒されてしまいそうになる。


 こうやは横目で志帆を見た。

 まつげがくるりと上向いている。ピンク色をした唇。肌は血の気が感じられないほど白い。彼女はまるでつくりもののようだ。


 ヘッドホンの音楽がうるさい。彼はプレーヤーの音量を最小に絞る。

 気が気ではなかった。胸がざわついている。落ち着かない。


 無音のヘッドホンを耳にかけ、背筋を伸ばして両手を前に組むこうや。

 手持ち無沙汰だ。

 そこで彼は、CDケースからライナーノーツを取り出した。ライナーノーツとはアルバムの解説や歌詞の訳などが載っている小冊子のことだ。

 ページを広げてみるものの、やはり文章は全く頭に入ってこない。こうやの視線は、バンドメンバーの変遷や七〇年代後半のイギリスの社会情勢などが書かれた紙面を上滑りした。


 そもそも、彼女はなんで僕なんかに話しかけてくれたのか。こうやは不思議に思う。

 彼女は一体どういう心境で今、僕の横に座り音楽を聴いているのか。

 僕のことを、“気になってた”と彼女は言った。その言葉は一体、何を意味するんだろう。


 そんなことを考えていると、志帆がヘッドホンを外しているのがこうやの目に入った。志帆はヘッドホンを机に置くと、プレーヤーの停止ボタンに指を掛ける。

 彼女はもう行ってしまうんだろうか。


 彼女が去ってしまう前に、もう一度言葉を交わしたいとこうやは思った。このまま別れてしまいたくはなかった。今後のためにも、志帆との距離を少しでも縮めておきたかった。


 彼は急いでライナーノーツを閉じ、ケースの中にしまう。

 その際あまりに慌てたために、こうやは紙で指を切ってしまった。


「痛っ」


 鋭い痛みが指先を走る。

 人差し指の傷口から血が滲んだ。


「あら」と志帆はこうやの傷を覗き込む。


 僕を心配してくれてる。怪我をしたものの、嬉しかった。


「大丈夫だよ。ちょっと切っただけだから」こうやは彼女に言う。


 しかしその言葉を聞いてもなお、志帆は彼の指先から目を離さなかった。彼女は傷口を凝視している。


 指先の血はゆっくりと染み出し、小さな雫となった。赤い雫はじわじわと大きくなって、ぽたりと落ちた。


 志帆は、傷口にさらに顔を近づけた。

 どう考えても心配し過ぎだ。指をちょっと切っただけなのに。こうやは怪訝に思った。もしかして、この子は血が苦手なのかな。


 彼は切れていない方の手でズボンのポケットからティッシュを取り出して、血を拭った。そして志帆に目をやる。

 彼女は、こうやに見られたことではっとしたようだった。


「痛くない?」取り繕うように彼女は訊いた。


 こうやは無言で頷く。


「なら……よかった」彼女の目は泳いでいた。「じゃあわたし、帰るね」志帆はそう告げると、CDをケースに戻してこうやに渡した。

「音楽はどうだった?」

「素敵だった。教えてくれてありがとう」彼女は立ち上がる。「またね」少女はこうやのもとから歩き去る。


 こうやは勇気を出して、志帆の背中に声を掛けた。「また一緒に話そう」



 志帆は振り返り、微笑んで見せた。



 彼の心臓は射抜かれた。


 こうやは自分がまだヘッドホンを装着したままであることなど忘れ、去っていく志帆を見送った。彼女の姿が見えなくなるまで。

 志帆は後ろ姿まで完璧だった。


 こうやはこれまで以上に、彼女に惹かれてしまった。

 だが心惹かれたのは実は彼だけでなく、志帆もまたそうだった。



 彼女が惹かれたもの。

 それはこうやの、血だった。

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