第二話 見つめ合う二人

 薄汚れた巨大な白い壁が、こうやの前に立ちはだかっている。

 悪天候による薄暗闇のせいでより威圧的に感じられるその施設は、図書館だった。


 青羅市立図書館は市内で最も大きく、蔵書数は県内でもトップクラスを誇る。


 B級SFホラー映画に出てくる安っぽい研究施設みたいだ、と五階建ての図書館を見上げて彼は思う。見慣れたはずの建物がどういう訳か、今日の彼の目には新鮮に映る。映画だったら、ここで人体実験やら宇宙人の解剖やらが行われるはずだ。平日の昼過ぎ、中途半端な時間帯に放映される類のB級映画だったら。

 自動ドアの前で傘を閉じ、よく振って水気を十分に飛ばしてからこうやは図書館の中へ入った。

 背後で自動扉が静かに閉まる。図書館特有のつんとした匂いが鼻を刺す。



 ここが研究施設なら、僕は実験用のラットってところか。



 図書館は静かだ。

 こうやの濡れた靴底は、館内にきゅっきゅと耳障りな音を響かせた。その音がやたらと目立つ。

 こんな天気だというのに利用者の数は普段とあまり変わらなかった。利用者のほとんどは大人。そしてそのほとんどが高齢者だった。

 エントランスにある大きな机。今日はその七割ほどが埋まっている。新聞を読む者もいれば、雑誌を読んでいる者もいる。文庫本を手にしたまま眠る、老齢の男性もいた。


 あの子はもう来てるんだろうか。

 まだ来てないといいな。だってまだ心の準備が整ってないから。


 こうやは緊張した面持ちで、少女がいつも座っている窓際の席に目をやった。


 彼女はそこにいた。

 例のごとく水筒を傍らに、俯いた姿勢で本を読んでいる。


 少女を見つけた途端、こうやの足は止まった。


 もう図書館に来てる。どうしよう。

 直立不動で彼女を見つめるこうや。

 焦りと不安が一挙に襲ってくる。


 少女の長い髪は前に垂れ、その毛先は本に触れるか触れないかというところで微かに揺れていた。雨のせいでこうやの髪はひどいありさまだったが、彼女の髪は相変わらず綺麗だ。

 彼女が読んでいるのは非常に大きな本で、開かれたページには西洋の美術品の写真が掲載されている。少女は細く長い指で大型本の端を優雅に撫でながら、写真に見入っていた。


 そんな彼女の姿に、こうやは今日も心を奪われてしまう。


 かくも美しい彼女は、こんな場所には相応しくないように思えた。B級映画に大女優が出演するようなもんだ。暇に任せて眠りこけている老人や冴えないクセ毛の中学生には、チープなセットと胡散臭い特撮で構成された低予算映画がお似合いかもしれないが、彼女には豪華絢爛な大作映画こそ相応しい。


 少女がふと顔を上げた。

 それまで髪の毛で隠れていた彼女の顔があらわになる。こうやは映画を観ているかのような錯覚に陥った。彼のスクリーンに映る少女の姿は、どんなハリウッド女優よりも輝きと魔法に溢れている。


 彼女は、ある一点に視線を定めた。

 あろうことかその目は、こうやに向けられていた。


 見つめ合う二人。


 こうやは彼女のに魅了されてしまう。異様で、毒々しいほどの力がある。蠱惑的な目。それはどこか、アイメイクを施した古代エジプト人の独特な目を想起させるものがあった。

 彼の息は止まる。

 彼は少女から目を逸らすことが出来ない。


 なんであの子は僕を見てるんだ?


 まばたきもせずにこうやを見つめる少女。

 彼は彼女に、若干の恐怖すら覚えた。だが同時に、催眠術にかけられたような心地よさを感じる。

 これは幸せな夢なのか、はたまた悪夢なのか。


 膠着状態に堪え切れなくなったこうやは、少女から目を逸らしてしまいたくなった。だけどここで自分から目を逸らしたら、今後彼女に話しかけるきっかけを掴むのは、これまで以上に困難になるだろう。これはチャンスだ。それも、ビッグチャンスなんだ。でもだからといって、彼女に話しかけに行く勇気は自分にはない。

 追い詰められた。脳は軽い錯乱状態に陥っている。


 こんな時はとりあえず、笑顔だ。


 どこからともなく、そんなアイディアがひらめいた。

 笑いかけてみよう。出来るだけ上品でチャーミングな笑みを浮かべるんだ。スパイ映画の紳士みたいに、小粋な笑みを。



 ……ニタリ。



 作戦が失敗したのは、自分でもすぐに分かった。

 これじゃあスパイというより、悪事の成功を確信した悪役の笑い方だ。


 中途半端で不気味なこうやの表情を見るやいなや、少女はすぐに彼から目を逸らした。その瞬間、彼女は眉をひそめた。まるで汚いものでも目にしたかのように。


「あ……」こうやの口から思わず声が漏れる。


 笑みを顔に張り付かせたままの彼の心に、ぽっかりと穴が開く。

 瞬間で凍結するメンタル。さながら工場で急速冷凍される冷凍食品だ。


 終わった。

 希望は見事に打ち砕かれた。


 傘を握る手に力を込め、こうやはその場から早足で歩き去る。

 自分の情けなさに腹が立つ。自分の醜さが苛立たしい。

 消えてなくなりたい。

 こうやは階段を上り、ある場所へと向かった。

 逃げ場ならあそこしかない。


 窓の外で陰鬱に揺れる木々。どこまでも続くかと思われる灰色の階段に、自分の黒い影が長く伸びている。いよいよ現実がホラー映画めいてきた。僕は必死に逃走を試みる実験用のラットだ。僕を実験台にせんとする悪の科学者からなんとしても逃げなければならない。そして過酷なからも。

 ラットは逃げる。クセ毛を弾ませ、傘を片手に。

 激しい逃走劇の果て、ついにラットは最後の聖域にたどり着く。


 その場所はこう呼ばれていた。

 視聴覚コーナー、と。



 貸し出し用のCDやDVDを、視聴覚コーナーではその場で視聴することが出来る。図書館に来たものの何の本も読む気がしない時や、学校で嫌なことがあった時、彼はそこで音楽を聴いて時間を過ごした。


 今日は誰もいなかった。そもそも視聴覚コーナーにはあまり人が来ない。平日であれば、先客がいたとしても一人か二人といったところだ。

 机にはモニターとプレーヤーがそれぞれ設置され、一人分のスペースが衝立で仕切られている。

 こうやは席に傘を立て掛け、椅子の脇に荷物を投げた。


 座席から数歩離れたところにCDの棚がある。彼は洋楽を集めた棚の前で腰を屈め、CDを選ぶ。

 彼は洋楽を好んだ。


 クラスのみんなが知らないようなものを聴いてみたい。そう思ったのが、こうやが洋楽に興味を持ったきっかけだった。最初はあまり魅力を感じなかったが、いくつか違ったジャンルの音楽を聴いてみたところ、徐々に自分の趣味が掴めてきた。


 彼の最近のお気に入りは、“パンク”だった。


 シンプルでエネルギッシュなその音楽は、こうやの憂鬱を吹っ飛ばしてくれる。なんだか分かんないけど、とにかくすごくかっこよかった。

 彼は棚から数枚のCDをピックアップした。その全てが、すでに聴いたことのあるアルバムだった。今日は新しいものを聴く気にはなれない。

 席につき、CDをプレーヤーにセットする。備え付けのヘッドホンを装着し、音楽が始まるのを待つ。その間彼はアルバムジャケットを眺めた。

 ニタついた四人のメンバーがじゃれ合っている写真の上に、バンド名とアルバムタイトルが乱暴な字体で記されている。テープでCDケースに張り付けられている帯には日本語で、“元祖ロンドンパンクの爆発!”と書かれている。

 元祖かどうかなんて彼にはどうでもよかったが、こうやはこのバンドが好きだった。今は彼らに胸の重苦しさを払拭してほしかった。


 耳元で音楽が弾けた。


 ディストーションの効いたギターが単調ながらもパワフルなコードワークで演奏の着火剤となり、がちゃついたドラムがすぐに応酬する、ベースがくぐもった重低音でそこに加わり、ヴォーカルはそれらの隙間を縫うようにしてがなり立てる。


 たしかに、“爆発”だった。


 パンクを聴いている時だけは、こうやは自分自身を存在なのだと感じることが出来た。ヘタクソながらも強烈に熱のこもったパンクバンドの演奏は、自分みたいな奴でもこの世界にいていいんだ、って思わせてくれる。


 こうやの身体は熱くなり、精神は束の間の自由を味わった。


 だが気分の高揚は、長くは続かなかった。

 ヘッドホンのお祭り騒ぎな演奏と彼の心は、時間と共に乖離していった。

 現実が舞い戻り、こうやは再び暗い気持ちになる。


 さきほどの、眉をひそめた少女の表情が脳裏にちらつく。


 うなだれるこうや。今日こそはあの子と距離を縮めようと思ってたのに。溜息をつき、背中を丸める。

 するといきなり、何者かによってヘッドホンがすっと外された。遠ざかるヘッドホンからは迫力のない、痩せ細った音が漏れ聴こえる。

 何のいたずらだ? 彼は気を悪くした。よりによってこんな時に、馬鹿げたことをするのは一体どこの誰だ?

 いたずらの犯人を確認しようと、こうやはすぐさま後ろを振り返る。



 彼の背後には少女が立っていた。

 えんじ色のワンピースを着た少女が。

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