第三二五食 女子高生と二人称③


「ゆ――、ただいまー」

「……。……は?」


 部屋へ入って来たかと思えばなんの予兆よちょうもないままそう言った真昼まひるに、台所で手を洗っていたゆうが困惑の色を浮かべた。泡立てることを忘れられた液体ハンドソープが指の隙間を通り抜け、シンクの上にぽたぽたとむなしく垂れ落ちる。

 唖然あぜんとする恋人をつとめて無視し、少女はさもなんでもないことのように続けた。


「ゆ、夕くん、手洗いうがいはしっかりした方がよろしくてよ? ただでさえ最近はインフルエンザとかノロウイルスとか流行はやってるんザマスからね?」

「え……ど、どうかしたのか、真昼?」

「い、いいえ? どうもしないでありんすよ、夕くん。な、なにか気になることでもあったでござるか?」

「むしろツッコミどころが多すぎてどこから手を付ければいいか分からないレベルなんだが……とりあえずそのコロコロ変わる語尾ごびはなんなんだよ?」

「え? わ、私はいつも通り夕くんと喋ってるだけでヤンスが……」

「嘘つけ!? 『ヤンス』とか君と初めて会った日から今日までで一回も聞いたことないわ! 本当にどうしちゃったんだよ!?」


 本気で心配そうな声を上げた彼に、真昼は「あ、あれえ?」とまばたきを繰り返す。


「ご、ごめんなさいお兄さん。お兄さんのことを〝夕くん〟って呼んでみたらどうなるんだろうと思って……でもそしたら普段どんな風にお兄さんと話してたのかも分からなくなっちゃいました」

「いやなんでだよ。ただ二人称変えただけであそこまで口調がおかしくなるって、もはやちょっとした才能だろ。というかなんでいきなりそんなことを?」

「えっと……な、なんとなく〝お兄さん〟のままだとちょっと距離があるような気がしまして……その、あんまり恋人っぽくないじゃないですか、〝お兄さん〟って」


 両の人差し指をつつき合わせながら答える少女。友人たちに言われたことそのままだが、第三者から指摘されたことほど気になってしまうものだ。

 しかしそんな不安の声を、青年はあっさりと笑い飛ばした。


「ははっ! 『恋人っぽい』ってなんだよ? 恋人っぽくてもぽくなくても、別にどっちでもいいと思うけどなあ。俺と真昼きみは現実に恋人同士なんだからさ」

「!」


 とてもシンプルなその言葉に真昼が目を丸くする。夕が手洗いを再開する片手間で返したその答えは、単純ながらも話の本質をとらえていたから。


「で、でも……〝お兄さん〟より〝夕くん〟の方がもっと親しげな気がしませんか?」

「んー? そうか? 俺はあんまり気にならないかな。もちろん真昼がそう思うんなら、呼び方なんて好きにしてくれていいし。ただ距離感云々の話をするなら、君の敬語の方がよっぽど距離がある気がするけどな?」

「うっ!?」


 微笑混じりに痛いところを突かれ、喉を詰まらせる少女。たしかに彼の言う通り、交際が始まってからも一向に抜ける気配がない真昼の敬語の方がよほど浮いて見えるだろう。とはいえ――


「こ、敬語コレはもうくせみたいなものですし……それに、今までずっと敬語そうだったものをいきなり変えたらヘンじゃないですか」

「ヘンじゃないだろ、俺の呼び方をいきなり変えるのがヘンじゃないって言うなら」

「むぐっ!?」

「せっかくの機会だし、これからちょっとずつ矯正きょうせいしていこうぜ。とりあえず今日一日は敬語禁止ってことで」

「む、無理無理無理っ!? そんなの無理ですっ!?」

「はいアウトー。ばつとして明日も敬語禁止な」

「それ無限ループになるやつじゃないですか!?」


 涙目になる真昼を見て、夕がケラケラと楽しそうに笑う。どうやら彼にとっては、二人称など本当にどうでもいい問題らしい。いな、きっと真昼の敬語だって、実際はさほど気にしているわけではないのだろう。


『俺は――と思う』


 昼休みに聞いた、ゆずるの答えを思い出す。


家森夕あのおとこが本当に旭日あさひを想っているなら、そんな些末さまつなことなど気にもめまい。少なくとも俺なら他者からどう見えるかではなく、自分たちの自然な関係を大切にしたい……と、思う』


「――弦くんが言ってた通りですね」

「? なにか言ったか?」

「いえ、なんでもないですよ、っ!」

「なんだ、結局そっちでいくのかよ」

「えへへー」


 いつもの調子を取り戻した少女は、大好きな青年に向けて破顔はがんする。


「やっぱり自然体が一番ですからね!」

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