第二九〇食 仔犬少女と小悪魔少女①

 数学、現代文と順調に宿題を終わらせていき、時計の短針が頂点を通りかかる時分。古文の途中で机に突っ伏してしまった亜紀あきのことをすり起こす真昼まひるが、不意にぴくんっ、と耳を反応させた。まるで気になる音を感知した小動物のような動きだ。


「どしたのー、まひるん?」

「う、ううん、なんでもないよ。ほ、ほらっ、続き続き!」

「……?」


 曖昧あいまいに笑って座り直し、宿題の続行をうながしてくる少女。先ほども少し様子がおかしかったがそれともまた違う、なにかを誤魔化ごまかすような態度である。

 なんだろうと亜紀が首を傾けているとその一分ほど後、壁の薄いアパートの隣室からがちゃがちゃと鍵を回すような音が聞こえてきた。それと同時に真昼が何に反応したのかを理解し、「ははーん?」とあごに手をえるゆるふわ系少女。


「ねーねーまひるん、おにーさん帰ってきたみたいだねー?」

「へ、へー、そう?」


 ニヤニヤ見つめながら言ってみると、真昼は素知そしらぬふうよそおったまま教科書を持ち上げる。察するに〝お兄さんが帰ってきたことなんて別に気にしてませんよアピール〟なのだろうが……その教科書は二つ前に終わった数学、ついでに上下どころか裏表まで反対だった。さらにはチラチラと壁の向こう側へ意識を飛ばしているため、本心では何を考えているのかバレバレである。

 ゆうはバイク通学なので、真昼はエンジンの音で彼の帰宅にいち早く気が付いたのだろう。しかし亜紀にはさっきも色々言われたばかりなので、なるべく穏便おんびんに事を済ませるべく知らんぷりをしていた、というわけだ。たしかに亜紀の性格を考えると夕にも「まひるんとどこまでいったんですかー?」などとたずねかねないので、真昼が可能な限り接触させたくないと思うのも無理はない。

 だが、この小さい悪魔のような友人がそんな目論見もくろみ看過かんかするはずもなく。


「いやあー、おにーさん帰ってくるの早いねー? 今日は大学、もういいのかなー?」

「き、今日は午前中で終わりの曜日だから……」

「へー、そうなんだー。ってことはまひるん、お昼からはおにーさんと一緒に過ごせるんだねー? んふふー、オジャマだろうし私もう帰ろうかー?」

「……っ! い、いいよ、お兄さん今日アルバイトの日だからまた出掛けなきゃいけないだろうし……それに亜紀ちゃんの宿題だってまだ終わってないでしょ?」

「え~っ、まひるんってば超友だち想い~っ! ……でもいいのー? 本当はおにーさんに『寂しかったですっ!』って抱き付いたりしたいんじゃないのー?」

「そ、そんなこといつもしてないもんっ!? もうっ、亜紀ちゃんは私たちのことからかいたいだけでしょっ!? 今日は宿題が全部終わるまで帰さないんだからねっ!」

「やーん、まひるんってば鬼畜きちくぅー」


 がるるっ、と警戒をあらわにする仔犬少女と、ガラにもなくぶりっ子キャラを演じる小悪魔少女。すると真昼の大声が抜けてしまったのか、二〇六号室側の壁が遠慮がちにコンコン、と叩かれた。


『真昼ー、ただいまー。どうかしたのかー?』

「! お兄さんっ、おかえりなさいっ!」

「のわあっ!?」


 青年の声が聞こえた瞬間、パッと顔を輝かせた真昼が壁際かべぎわに置いてあるベッドの上へ飛び乗った。一方悲鳴を上げたのは、凄まじい勢いで目の前を踏み越えられた亜紀である。


『今の声……ひょっとして誰か遊びに来てるのか? だとしたらごめん、邪魔したな』

「気にしないでくださいっ! 遊びに来てるのは亜紀ちゃんなのでっ!」

「なにその『亜紀ちゃん相手なら気遣わなくていい』みたいな言い方ー」

『あー……そ、そっか、赤羽あかばねさん、来てるのか……』

「なんでおにーさんも若干嫌そうな言い方すんのー? このカップル、私に対してちょっと失礼すぎないー?」


 後ろから聞こえる亜紀の文句などどこ吹く風で、真昼は壁に両手をついて喜色満面の表情を浮かべている。彼女に尻尾しっぽえていたなら、主人を見つけた忠犬のごとくぶんぶんと左右に振り回していたことだろう。


『二人はもう昼飯食べたのか? もし良かったら二人の分も一緒に作るけど』

「そ、そんなっ!? それなら私が作りますよっ、お兄さんは大学もお仕事もあるんですからっ!?」

『いいっていいって、大した手間てまでもないしな。あ、もしかしてどこかに食べに行く予定だったか?』

「いえ、そういうわけじゃないですけど……あ、亜紀ちゃん、お昼どうする?」

「んー、私もまたおにーさんのご飯食べたいなー。前に作ってもらったハンバーガー美味しかったしー」

『了解、赤羽さん。それじゃあ出来たら呼ぶよ。少しだけ待っててくれるか?』

「わ、私もお手伝い――」

『いいから。真昼はお客さん来てるんだし、こういう時くらい俺に働かせてくれよ』

「はあぁん、お兄さぁん……!」


 優しい言葉を掛けられ、壁に向かったまま顔をとろけさせる真昼。そんな友人の後ろ姿に、亜紀は「おにーさんのこと好きすぎでしょー」といつも通りの感想をいだくのであった。

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