第二七五食 恋人たちと最初の朝


 俺という人間は、これまで生きてきた二〇年間でただの一度たりとも〝恋人コイビト〟なるものが出来たことがない。

 もっとも、別にそのことをコンプレックスに思ったりしたことはあまりなかった。恋仲の男女が仲むつまじく歩く姿をうらやましく思ったことが一度もないと言えば嘘になるが、しかし友だちとバカ話をしたり、一人でのんびり過ごしたりする時間もそれを負けず劣らず楽しいものだ。……という話を以前友人のイケメン女子大生にしたら「モテない男の言い訳っぽいね」と笑われたが。っとけ。

 そして昨日、そんな寂しい言い訳野郎に初めて恋人が出来た。名前は旭日真昼あさひまひる、高校一年生の一六歳。容姿、性格、成績、人望――どれ一つ取っても冴えない男子大学生Aの俺とは釣り合いが取れていない、まさしく理想を絵に描いたような女の子である。ついでに年下趣味ロリコン揶揄やゆされても仕方がない年齢差だが、節度せつどのある関係を構築していく所存なので、世間の皆様には冷たい目で見るのをめていただけるとがたい。


 さて、そんな俺と真昼のこれまでの関係を一言で表すとすれば、それはおそらく〝良きお隣さん〟がベストだろう。今年――もう去年だが――の春に出会ってからというもの、どれだけの時間を彼女と過ごしてきたか分からない。一学生が自炊した安い飯を食べて瞳を輝かせるお日様のような少女の存在によって、俺の色褪いろあせた日々は間違いなく変わった。失いたくない、手離したくないと願ってしまうほどに。

 しかしながら、その〝良きお隣さん〟としての関係も昨日で終わりを迎えてしまったわけだ。これからの俺たちは隣人としてではなく、恋人として過ごしていくことになる。

 正直、まだ戸惑いは抜けきっていない。たった数日で大きく変化した関係に即応することは難しいはずだ。ただでさえ、俺も真昼も互いが初めての恋人なのだから。ぎこちない空気になってしまったり、これまで通りに振る舞えなくなったりしてもおかしくない。


 ――と、思っていたのだが。


「真昼、目玉焼きどうする?」

「んーっと……今日はケチャップの気分なのでケチャップで! あ、お兄さん、ご飯の量はどうしますか? 大盛り? 特盛り? 超大盛り?」

「なんで下限かげんが大盛りなんだよ。今朝は軽めでいいや、小盛りで」

「なに言ってるんですか、お正月だからってご飯抜いたら元気が出ませんよ! せめて超大盛りにしましょう!」

「『せめて』で特大サイズを提案してくるんじゃないよ。わ、分かった、大盛り食うからどんぶり用のうつわを用意しようとしないでくれ……」


 しゃもじを片手にウキウキと炊飯器から米をよそう真昼に苦笑しつつ、朝食の準備を終えた俺は部屋のテーブルに味噌汁と目玉焼きの皿を運ぶ。昨日はお汁粉しるこ一昨日おとといはお雑煮ぞうにもち続きだったので、今朝はスタンダードな朝食だ。そして少し遅れ、なんだかんだで特盛りになっている茶碗ちゃわん二つを持った少女が対面に座るのを待ってから、二人揃って手を合わせる。


「いただきます」

「いただきまーすっ!」


 えさを待ちきれない仔犬のようにはしを取り、真昼がぱくっと白米を口へ運ぶ。瞬間、「んぅ~っ!」とイイ笑顔を咲かせる彼女は実にいつも通り。彼女を見ているとこちらまで腹が減ってくるのもいつも通りだ。

 俺もならうように箸を取り、黙々もくもくと食事を始める。家森やもり家においては「ごはん中におしゃべりするんじゃありません!」的な規則は存在しないものの、食べることに夢中になっている少女をわざわざ邪魔する必要もあるまい。

 そのまま無言で食べ進めること約五分。文字通りあっという間に皿をからっぽにした真昼は「はふう」と満足げな息をつくと、まだ半分ほどしか進んでいない俺を対面から眺めながら言った。


「なんというか……付き合ったって言っても、意外と変わらないものですね」

「ん、そうだなあ」


 まったく同じことを考えていた俺が箸をくわえたまま頷くと、少女はくすっと微笑ほほえみを返してくる。


「やっぱり真昼としては、なにか変わった方が嬉しかったか?」

「いえ、そういうわけじゃないですよ。私、お兄さんと一緒にゆっくりごはん食べるの、大好きですから」

「……? ……そっか」

「あっ、今一瞬、『そんなガツガツ食べておきながら何言ってるんだろう』って顔しましたね!? ゆ、ゆっくりっていうのはそういう意味じゃなくてっ!?」

「分かった分かった。別に何も言ってないだろ」

「目が言ってたんですよう……」


 むむむ、と首をちぢめる真昼が今言った通り、恋人同士になったところで俺たちの間になにか大きな変化が起きたというわけではなかった。少なくとも、今のところは。

 いや、考えてみれば当然かもしれない。そもそも人間関係の変化による影響が最も大きいのはだ。「あの二人、付き合い始めたらしいぜ」「あいつ、あんな可愛い子と付き合ってるなんてねたましい」といったふうに、誰かと誰かの関係が変わると、当事者同士以上に周囲の人間からの見え方・評価が変わる。

 しかし俺と真昼の場合は元からほとんどこの部屋で、二人きりで過ごしてきたために〝第三者の視点〟がなく、その分変化を感じづらいのだろう。たとえばここに青葉あおば赤羽あかばねさんが居たら、散々やかされる代わりに「俺たち、本当に恋人になったんだなあ」と実感出来たはずだ。


「なるほどなるほど……たしかにそうかもしれませんね」


 俺の話を聞いてウンウン頷いた真昼は、しかし直後に「でも」と続ける。


「〝他の誰か〟が居なくたって、恋人になったことを実感する方法はたくさんありますよ」

「え? どんな?」


 即座には思い付かない俺が首を傾けると、すくっと立ち上がった少女はとてとてとこちらへ歩み寄ってきた。そして――


「たとえば、こうですっ」

「!?」


 がばっ、と首に抱きついてきた真昼に、俺は思わず全身を硬直させてしまう。手に持っていた箸が落ち、茶碗と皿の上でカランカラーン、と高い音をかなでた。


「え、えへへ……どうですか? こんなこと、昨日まで簡単には出来なかったでしょう?」

「い、いや……俺は今でも簡単には出来ない、かな……?」


 無意味と分かっていながら、どうか顔が赤くなっていませんようにといのる俺は、ヘタレ根性にむちを打っておずおずと彼女の細い身体を抱き返す。わずかにれた少女の吐息といきが、やたらと耳にくすぐったい。

 そういえば真昼はハグ、というかスキンシップに抵抗などはないのだろうか。この子が無防備なのは出会った時からなにも変わっていないものの、流石にこんな風に前触れもなく抱き付かれると紳士しんしなお兄さんも困ってしまうのだが……などと考えていると。


「――んに゛ゃあああああっ! ももっ、もうダメっ、もうダメですっ!」

「!?」


 奇声とともに勢いよく身を離した少女は、熱された鋼鉄はがねのように真っ赤っかになった顔をむぎゅうっと両手で挟み込む。


「こここっ、これ以上は恥ずかしくて死んじゃいますっ!? とと、というかお兄さんっ、なに普通に抱き締め返してくれちゃってるんですかっ! 私が想定してないことしないでくださいっ、お兄さんのえっち!?」

「ええっ!? 自分は突然抱きついてきといて!?」

「私はいいんですっ! でもお兄さんが私を抱っこする時はあらかじめ許可をとってくださいっ! じゃないと私、なんかもう胸がいっぱいいっぱいになっていつかは爆発しちゃいますからっ!? 部屋の中が私の臓物ぞうもつとかはらわたでぐちゃぐちゃになるの、イヤでしょう!?」

「どんだけグロいおどし!? で、でも分かったよ、真昼がそんなに嫌なら抱き締め返すのはやめてお――」

「イヤなんて一言も言ってませんっ、むしろウェルカムです! ただ、その時は予め許可をとってくださいと言っているだけで!」

「(め、めんどくせえっ!?)」


 大胆なのか照れ屋なのか分からないことをまくし立ててくる少女に心の中で叫ぶ。

 そんなこんなで、ぎこちない空気になったり、これまで通りに振る舞えなくなったりこそしなかったものの、恋人としての俺と真昼の日常がまくを開けた。……なんだか、今からとても不安である。

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