第八〇食 家森夕と海の日前日譚


 その日の夜。俺が台所で久し振りに夕飯の支度をしていると、玄関の鍵がカチャカチャと音を立てて静かに開かれた。


「こんばんはー」

「おう、帰ったのか真昼まひる。おかえり」

「ただいまです、お兄さん。わっ、いい匂い……!」


 買い物から戻った真昼まひるは靴を綺麗に揃えて脱いでから、鍋をかき混ぜている俺の側にとてとてと近寄ってくる。


「シチューですか?」

「うん、ビーフシチュー――は牛肉が高くて手が出せなかったからチキンシチューだ。夏に空調の効いた部屋で食うシチューってのもオツなもんだろ?」

「いいですねっ! 私も夏場に食べる熱々のカレーとかラーメンとか大好きですっ!」

「君の胃袋は本当に元気だなあ。もうすぐ出来るから向こうで待ってな」

「私もなにか手伝いますっ!」

「いいからいいから。試験期間中散々世話になったし、今日は俺にやらせてくれ。あっ、そっちで死んでる奴は無視してくれていいからな」

「しんでるやつ……?」


 首を傾げる真昼に、俺はシチュー鍋の火を弱めてから彼女を連れて奥の部屋へ。そして俺が寝起きしている布団を勝手に広げてぐでっと寝転んでいるそいつに顔を向けた。


「おいこら起きろ飲んだくれ。真昼帰ってきたから」

「んん……ぐぁ……? あ、おがえりー、まひるぢゃん……」

「あ、青葉あおばさん!? ど、どうしたんですか、顔真っ赤ですけど!?」

「こいつ試験終わった解放感プラス冬島ふゆしまさんの件からの現実逃避で昼間っから人ん家で飲み始めてな。で、悪い飲み方したせいで珍しくダウンしてるんだ」

「こ、この私が缶ビール六本程度で……ふ、不覚……! うっぷ……!」

「だ、大丈夫ですか青葉さん、今冷たいお水持ってきますから……!」


 自制心もくそもない女子大生に対し、ぱたぱたと台所まで行って水とタオルを用意してくれる心優しい女子高生。そんな彼女の後ろ姿をうつろな瞳で見つめながら、顔色の悪い青葉がぼそりと呟く。


「え……なにあの子、天使……? 心なしか背中に真っ白な翼がえてるように見える……」

「いやそれはお前が酔ってるからだけどな」

ゆうなんか親友の私が死にかけてるのを放置してシチュー作ってたのに……」

「なんで俺がお前の自爆にいちいち世話焼いてやらなきゃならないんだよ」


 真昼が用意してくれた水を飲んだことで青葉はいくらか体調が戻ったらしい。彼女は布団の上に胡座あぐらをかくと、ボリボリと頭をきながら天使まひるに微笑みかける。


「ありがと、真昼ちゃん。そういえばお買い物は済んだのかい?」

「あ、はい。みんなでお店に行って、水着とか日焼け止めとか買ってきました」

「ふーん、そっか。……ゆ、雪穂ゆきほちゃんはどうしてた……?」

「え、えっと……亜紀あきちゃんと一緒に『男の人をノウサツする水着』のコーナーを見てました」

「なにそのコーナー怖い!? そんなのあるの!?」


 の、悩殺って……冬島さん、本気で青葉こいつのことを落としにかかるつもりなんだろうか。……これはいよいよ実は女でしただなんて言えなくなってきたな

 そしてそれを聞いたイケメン女当人はと言えば……。


「ウフフッ、私真昼ちゃんの水着姿楽しみだなっ!」

「現実逃避すんな」

「真昼ちゃんはどんな水着にしたのかなー? やっぱビキニー? 夕に見てもらいたいもんねー?」

「いっ!? いえっ、そんなんじゃないですっ!? おおおお兄さんっ、そんなんじゃないですからねっ!?」

「いや分かってる分かってる。青葉のれ言なんか気にしないって」

「うぐっ!? でで、でもちょっとだけ楽しみにしてもらうくらいなら大丈夫というかなんというか……!?」

「な、なにが……? ってあっ、やべっ!? 鍋火かけたままだった!」


 赤い顔をしてよく分からないことを言う真昼に疑問符を浮かべた後、俺が慌てて台所へ戻る中。


「真昼ちゃん……お互いなにかと苦労が絶えないよね……」

「い、いえ私はそのっ……! ……はい……」


 なにやらそんな話し声が、後ろから聞こえたような気がした。

 そして俺たちは、あっという間に海の日を迎える――

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