第六四食 旭日真昼とドヘンタイ


 心臓がやたらと高鳴っているのを感じながら、エコバッグを手にした真昼まひるはごくん、と唾を飲み込んだ。

 その手に握られているのは一本の鍵。そして目の前にある扉の横に掛かっている表札には〝206 家森やもり〟の文字。

 時刻は午前九時四〇分。家主の青年は今頃試験を受けている頃だろうか。少なくとも、彼は今この扉の向こう側にはいない。「それでも一応礼儀としてインターフォンは鳴らすべきなのでは……!?」と自分でもどこの世界の礼節か分からないことを考え続け、既に三分が経過していた。


「(どっ、どど、どうしよう!? ほ、本当に入っていいのかな!? お兄さん居ないのに!?)」


 預けられた合鍵の重みに耐えかねているわけでもないのに、小さな鉄片を握る手がぷるぷると震える。本人の許可を得ているとはいえ、家主が居ない部屋に一人で入るというのは想像以上に勇気が要るらしい。しかしこのままではせっかく買ってきたアイスクリームが溶けてしまう。


「(ま、迷っててもしょうがないよねっ!)」


 ようやく決心し、鍵を差し込んでガチャリと回す。そしてぎゅうっ、とドアノブを握り……「えいやっ!」の掛け声と一緒に手首をひねって扉を引き開けた。


「お……おじゃましまーす……」


 無人の空間に挨拶をしつつ、靴をいつもの三倍丁寧に揃えて隅に寄せ、妙にカクカクした挙動で廊下を進む。そして一先ず奥の部屋のすぐ手前に置いてある冷蔵庫に買ってきた品々を仕舞う。


「こ、これで良し……」


 数日分の食料が詰め込まれた庫内を確認してぱたんと扉を閉じ、真昼は改めて夕の居ない部屋の中を見回した。カーテンで太陽光が遮断されているために室内は暗い。そして空気の流れがないためむんと熱気がこもっていてとても暑い。


「ま、まずは窓を開けようかな……」


 よくよく考えれば昼食の支度の時間までは別に夕の部屋に居なければならない理由などまったくないのだが、緊張で頭が回っていない女子高生はよたよたと部屋の最奥へ進む。そしてカーテンを開けようと手を伸ばしかけたところで――なにかにつまずいた。


「わぶっ!?」


 幸い頭を打ったりすることはなく、なにやら柔らかい物体が転んだ衝撃をすべて受け止めてくれる。なんだろうと思い、カーテンの隙間から漏れ入ってくる太陽光を頼りに目を凝らすと……今彼女が伏しているのは部屋の隅に畳んであった夕の布団だった。


「わーっ!? ごごっ、ごめんなさいっ!?」


 誰も見ていないのに顔を真っ赤にして謝りながら、真昼はバネ仕掛け人形のごとく勢いよく布団から体を起こす。そしてミスを繰り返さないためにもカーテンを開いて太陽光を取り込――


「わっ、わーっ!?」


 ――もうとして、今度はベランダに干してある洗濯物――主に靴下の隣に干されている男性下着――を見て更に頬の赤みが増した。


「(そそ、そうだった! お兄さんいつも朝ごはんの後に洗濯物干して出掛けるんだったーっ!)」


 夏休みに入るまで、真昼が家森家で食事をっていたのは基本的に朝晩の二回。だからなのかそれとも元々そうだったのかは分からないが、夕は朝起きてから洗濯機を回して真昼と朝食を食べた後に干し、夜に真昼が来る前に取り込むようにしていたらしい。理由は考えるまでもなく、真昼がなることを理解していたからだろう。


「(お、男の人ってああいうのいてるんだ……お、お父さんのとちょっと違うような……?)」


 両手で赤い顔を覆いながらも、指の隙間からその薄い布切れを物珍しそうに見る女子高生。……ちなみに知識のない彼女には分からなかったが彼女の父親はトランクス派、対する夕はボクサーパンツ派である。

 しばらくその状態で棒立ちしていた真昼は、やがてハッとして遅まきながら顔を逸らした。


「(な、なんか私ちょっとヘンタイっぽいっ!? お、お兄さんが居ないのにお兄さんの下着をじろじろ見ちゃうなんて……っ!?)」


 耳から煙を噴きそうなほど高熱を帯びる顔を両手で挟み込みながら、へなへなとフローリングの上に座り込む。親友ひよりの奮闘もあってその手の話題から遠ざけられがちな真昼にはこれだけでも刺激が強すぎてしまったらしい。


「(あわわ……お、お兄さんが帰ってきたら謝らなきゃ……!? 『パンツ見ちゃってごめんなさい』って……!?)」


 そんなことを謝られても逆に困るだろうということに、混乱しているこの少女が気付けるはずもなく。それどころか「『ヘンタイな女の子はちょっと……』って言われたらどうしよう!?」と青い顔で真剣に考え始めてしまう。


「うわあああんっ!? ち、違うんですっ! ほんの出来心だったんですうっ!?」


 妄想の果てに冷たい瞳をした夕から「二度と目の前に現れないでくれ、このドヘンタイ」とののしられる未来を幻視した真昼は泣きすがるように彼の布団、というか畳んであるマットレスの端っこに顔を埋めた。


「……お兄さんのにおいがします……」


 頭だけ布団に預け、ぐすんと鼻をすすりながらぽそりと呟く。この数ヶ月でいつの間にか慣れ親しんだにおいになんとなく安心感を覚え、少女はそのまま窓の外へ顔を向けた。そして射し込んでくる太陽の光に目を細め……やがてそのまま瞼を閉じる。


「……お兄さん、早く帰ってこないかなあ……」

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