第3話 告白
「随分な反応ね。昨日の夜、わたしを殺してくれたことを忘れてしまったのかしら?」
「ゆめ……夢で……うぁ……」
わけがわからなかった。
落ち着き払って自分に話しかけてくる美女の真意も、言葉の意味も何もかもがヘルガの想像の域を超えていた。
夢で見た美女がここにいる、それがまず理解できない。
そして自分が殺した、それが理解できない。
なんで自分に話しかけてくる、それが理解できない。
自分が人を殺した、かもしれないという可能性が浮上したことで、少年の認識のキャパシティは完全に決壊した。
気がつけば、彼の足は自宅へ向けて一直線に逃げていた。足は疲れを感じず、心臓が高鳴っているのもお構いなしに彼はひたすら走り続けた。
ガチャガチャとドアノブを回す中、何度もドアを叩くがドアが開かない。両親が出張で出かけていることすら忘れるほどにヘルガの意識は混乱していた。どうにか出張の件を思い出し、ポケットの鍵でドアを開けた彼は水泳選手顔負けのダイブで玄関に飛び込んだ。
扉を閉めることすら忘れて、二階の自室へと何度も転びながら駆け上がる。追ってきているんじゃないか、という恐怖が拍車をかけて、部屋に入ったかと思えばベッドのシーツを頭からかぶってガタガタと小刻みに肩を振るえはじめた。
いつ、あの赤髪の美女が目の前のドアを開けて入ってくるのか、ひょっとしたら窓から突っ込んでくるかもしれない。様々な杞憂という名の恐怖の思考がヘルガの脳みそに唾液を垂らしていき、しばらくは振るえが収まらず、膀胱すら引き締まってしまった。
窓から差す光が彼の瞳を焼く頃、ようやくその恐怖の呪縛が薄れ始め、ヘルガは冷静に思考し始めた。
あの、美女。
赤髪の美女はただただ美しいのではない。傾国の美女だとか、黄金比の女優だとか、そういう怪しさを含んだ美しさではなかった。実際に傾国の美女に会ったことのないヘルガには理解できなかったが、彼女の美しさは本能的に死神とかの笑みに近いのかもしれない、と直感した。
仮に死神がいるとすればああいう存在なんだろう。薄っぺらい綺麗な顔の下に蠱毒の毒蟲が這い回っているに違いない。
あとは、彼女の言っていた言葉。
「わたしを殺した」
一通り彼女についての第一印象を並べ立てた後、ヘルガは言葉の意味を探ろうとした。言葉通りに捉えるなら、あの女は今日の夢で殺した女だ。いや、ひょっとしらら殺したことは事実で、自分は徘徊していたのかもしれない。
じゃぁ、とヘルガはシーツをほろりと落とし、顔を上げた。
「ひょっとしたらマックスの言っていた殺人鬼って……」
俺かもしれない。
バラバラ死体といえば、とマックスは言った。ならばより一層自分が該当してしまう。自分はたしかに彼女をバラバラに切断した。廿一の肉塊へと流麗な美女を分解した。
知らなくて当然だ。
自分にとって都合の悪い、ともすれば心を壊してしまうかもしれない現実を人は無意識の内に忘れる。
そんな現象が今の自分の中で起こっているとしたら。
顔を覆い嗚咽を抑えながらヘルガは何度も何度もつばを飲み込んだ。口内で酸味がほとばしるが、それを我慢して何度も何度も荒い息を吐きながら、己の夢の中での、いや実際にあっただろう出来事を脳裏で幾度となく再生した。
やがて必死に動揺を圧し殺しながら、ヘルガはベッドの上から立ち上がった。立ち上がる足はガタガタと揺れ、彼の心臓はまだ激しく揺さぶられていた。
震える足を、心臓をどうにか押さえつけて、ゆっくりとヘルガは玄関のドアを閉めようと部屋のドアノブに手をかけた。
なぜ今更になって玄関のドアを閉めようと思ったのか、自分にもわからなかった。ただそうするべきだろう、と無意識に思っていた。
そしてドアノブを回した先に、
「ようやく招き入れてくれたね」
先程の美女が笑顔のまま立っていた。赤みがかった濃紺のドレスを着た彼女はそのままゆったりとした足運びでヘルガの部屋に入ってきた。逃げ出す、ということはヘルガにはできなかった。
まるで意識そのものが弛緩したかのように身動きをやめて、そのまま彼の背中が壁とぶつかるまで後ずさった。
「それで……幽霊が僕になんの用だ?」
「幽霊?」
「だって……そうだろ?僕は君を殺したはずだ。その記憶がある」
悩んだ結果、ヘルガが眼の前の美女の正体について出した結論は「幽霊」だ。バラバラにされた人間が次の日には五体満足で笑顔で街中を歩いているのを見たらそう思わざるをえない。
怯えながら自分のことを指差すヘルガに美女はくすり、と愛玩動物と接するかのような、浅い笑みをこぼした。
「わたしは幽霊なんかじゃないわ。まぁ、近いと言えば近いけれど……」
「じゃぁ、なんだって言うんだ?」
「わたしは……そうねぇ。死神といったところかしら?」
はぁ、と間の抜けた反応がヘルガの口からこぼれた。
あまりの荒唐無稽さに、自然と死神と真顔で語る美女に憐憫がこもったような眼を向けてしまった。それくらいに彼女の言っていることはヘルガにとって理解不能だった。
死神など幽霊よりもたちの悪い妄言だ。
確かに彼女のことを死神かもしれない、と思ったことはあったが本当に自分は死神と言われて信じることなどできない。
「厳密には死神というのはとある奴らに対しての死神という意味だけど。まぁ、そんなことよりもお話はここからよ、
「殺死屋だと、僕が?僕はただの人間だ……!死神とかいう連中とまったく関わり合いのないただの人間だ!」
実際にこれまでの十余年の間、平凡な人生を送ってきたヘルガにとって連続殺人という言葉自体が滅多に耳にしない言葉だ。言わんや死神など身近に出てくる名前じゃない。
そんな自分が殺死屋と呼ばれるのは我慢ならなかった。仮に殺しをしていたとしても、そんな物騒なあだ名お断りだ。
「ただの人間にわたしは殺せないわ。薄皮一枚だって破くことはできない」
必死に声を荒げて反論するヘルガをよそに美女はどこから取り出したのか、小さなナイフを己の右手に突き刺した。
ぶちゃり、と血がほとばしり、周囲の家具にこびりつく。そんな未来をヘルガは想像した。
しかしそうはならなかった。
代わりにナイフがダンプカーにでもぶつかったかのようにひしゃげていた。まがっているのではない、先端から根本にいたるまでが器用に蛇行してつぶれていた。
「このナイフ、貴方が私を切り刻んだ時に使ったものよ?見ての通りぐっちゃぐっちゃに曲がっちゃうの。でも、貴方が使ったときはなぜか私をバターみたいに切り裂いた。なぜかしらねぇ」
もうナイフとしての体をなさないガラクタを投げ渡され、ヘルガはびくりと肩を震わせた。彼女の質問には自分は答えられないし、そもそもこんな見た目になったナイフを見るのもはじめてだ。ゴミ処理場のプレスを一度見学したことがあったが、そのときにつぶれた鉄くずがこんな感じだったかもしれない。
「生き返るにしたって結構痛いのよ?こう、ゆっくりと細胞同士が癒着していく中でバイキンとかも入っていくし、野ざらしされていると傷口に響くの」
「そんなこと言われたって……」
「そうね。わたしも殺されると思っていなかったから落ち度はあるけれど。でもどのみちわたしは被害者よ?
だから貴方にはわたしを殺した責任がある、と思わない?」
美しい笑顔で美女で冷たい爪をヘルガの首筋へ向けた。異様に長い爪はまるで刃物のようであり、軽く触れただけで自分の首を跳ねるんじゃないか、と勘繰ってしまう。
その思い込みからか、ヘルガの口はとっさに「ああ」と答えてしまった。望んでいた答えを聞けて満足だ、と喉を鳴らし、美女はすっと手を引いた。
どっちが殺し屋だよ、とヘルガはそのしたり顔に苛ついて顔をしかめた。
「じゃぁ、さっそく行こうかしら」
「ど……どこに?」
「あら、言っていなかったかしら?」
ドア先へ向かおうとしたかかとをくるりと反転させ、再び彼女はヘルゲへと振り向いた。切断された、と言っていたくせに数百年来の付き合いのような自然な筋肉運動だった。
「そうね、言っていなかったわね。わたしがこの街に来た理由、目的からなにもかもをね」
ゆっくりと口をヘルガの耳元に近づけ、彼女は囁いた。
「とりあえず、着いてきて。目的地に着いたらわたしの目的を教えてあげるわ。口で説明するよりもそっちの方が早いしね」
言うが早いか、彼女はさっとヘルガから離れた。一方ヘルガは耳元が真っ赤に紅葉し、ついさっきまで口元で囁かれた甘美な吐息に酔いしれていた。
面と向かって話しているときは感じなかった心臓を焦がす情念を掻き立てる吐息、それは少年の理想すら簡単に打ち砕き、初恋の甘酸っぱさを忘れさせるに足るインパクトを有していた。
発情にすら近い、甘露な誘惑な声音がヘルガの安い理性を崩壊へと向かわせる。これは断じて恋ではない。情欲を満たすとも違う。
儚い思い。
勘違いなのかもしれないが、まさしくこの感情は「愛」だ。
どこか心の臓を刺すようで、欲望を駆り立てられる謎の激情。恋などという純粋なものではない。邪な気持ちが混じり合い、幾多の氾濫を経てやがてそこで生命が育まれるかのような情欲による衝動に名をつけるならそれだろう。
崇敬も恋慕も憧憬も何もかもがどうでもいいくらいにせき止めがたい気持ちこそ「愛」だ。
ヘルガ・ブッフォという少年は恋ではなく、愛を知った。
夕日で橙色に変わりゆく部屋の中で、矮小な少年は性欲と同意の愛を知り、それを目の前の女性に求めた。人と人が触れ合い、ぬくもりを共感し、己の腹の中身の体温すら感じること、それが愛ならば、己の行為を正当化できる。
「僕は愛を知りたかった。そう、だから僕は君を殺した……君のぬくもりを感じたくて」
気づけば彼の告白は言葉となって口腔からこぼれ落ちていた。ぎょっとしてヘルガはまだこちらを見ている美女と眼を合わせた。思わず口から出た、陰惨な告白にいかほどの衝撃があるのか、少年が知る由もなかった。
台本などない、本当に素の感情で出た一言が、ヘルガの彼女に対する言い訳であり心情だった。
重ねて言おう。
彼は赤濡れの美女と会い、愛を知った。彼女に対し、愛情を覚えた。
「名前も知らない相手に愛を告白する人間を見たのは初めてね。一目惚れは恋をつくるけど、情欲はやはり愛を生み出すのかしら?」
肯定も、否定も彼女はしない。ヘルガの主張を「気持ち悪い」だとか「反吐がでる」だとか「共感する」だとか彼女は言わなかった。
「まだ一回しかこうやって話していないけど、わたしにはわかるわ。貴方、恋と愛を倒錯していない類の人間でしょ?だから貴方にとっての愛の形が恋と密接でない、と明かした」
気がつけば窓から差す光がなくなっていた。暗闇の中、彼女の赤だけがくっきりと輪郭をもって表出していた。
「愛は激しいものよ。恋は穏やかなものよ。混同はできない。だからきっとあれだけいたぶってくれたのは『愛』なのでしょうね」
ゆっくりとヘルガは彼女に近づいた。その背中を追うために。己に愛を教えてくれた見目麗しき令嬢に愛を押し付けるために。
「だから、わたしは君の愛を否定しないわ。受け入れるかもしれない。だってそれが君がわたしに対して抱いている評価なのだから」
暗闇の中、樽いっぱいの人血を頭から浴びたような皇女は三日月型に口元を曲げた。笑顔は元は威嚇だった、という話を信じてしまうほど、恐ろしげな形相で彼女はヘルガの告白を是とした。
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