第2話 日常から非日常へ変わるのは一瞬だ
気がついたら、彼は見知った天上を覗いていた。いつも見上げている淡い白の天上、高すぎもせず低過ぎもせずこの国の一軒家であればよく見る高さの天上があった。
同時にさっきまで見ていたおぞましい夢がフラッシュバックする。見知った
鮮明な夢の記憶であることがさらにヘルガをうろたえさせていた。明晰夢だったからか、それとも寝起き前の夢だったから?
とにかく、憶えていて気分の夢じゃない。一刻もはやく忘れよう、とヘルガはいつもどおりの日常に体を浸していった。
朝起きて、パジャマを着替え、リビングへと降りていく。家がそこそこ広いだけに階段を降りた後も一苦労だ。
リビングへ行くと、いつものように父親が定位置で
コーヒーとトースト、それからベーコンやスクランブルエッグなどいつもの食事が出され、しだいにヘルガは正常になっていった。悪夢だったが、それはきっと一時のことだ。
彼が気を取り直してトーストへ手を伸ばすとほんのりとした暖かさが伝わった。焼き立てなんだろう、とジャムをたっぷり塗ってトーストにかぶりついた。ベリーの甘酸っぱい味わいが口内いっぱいに広がった。
それはまるで。
脈動する生肝をすすっているかのような、甘美な食感だった。
舌の上でパンのかけらが跳ね、潰れる。ミンチになったパンをごくりと飲み込んでいく感覚はいつ味わっても食べた、という実感を持てる。パンだけじゃない。咀嚼したすべてのものが喉を通るとき、初めて食べていると実感できる。
それは正常なことだ。
夢の中身を忘れるほど、食事に没頭していくことが、正常なことだ。人生は多食多飲で事足りる。
食事をしている中、母親がふと思い出したように明日から父親と一緒に家を離れる、とヘルガに伝えた。そういえばそんな季節だな、と思いながらヘルガは窓の外を見た。
街路樹の紅葉が進み、黄色く染まったイチョウの葉が道を一面に覆っていた。今頃の季節になるとよく両親は出張に出かける。彼が10歳のころからそうだ。両親も特に話そうとしなかったし、ヘルガも進んで聞こうとは思わなかった。
そうか、そうですか。この程度の認識しか持っていなかった。
食事が終わるとヘルガは洗面台で歯磨きをし、そして自室で制服に袖を通した。マスケリア学院指定の制服だ。男子の制服はよく見るダブルタイプのブレザーなのだが、転じて女子の制服はどこかドレスっぽさがある、という変わった制服だ。
ブレザーの起源を考えると、学院の嗜好を加味して騎士と姫なのかな、と思ったことがある。実際に学院の校章が棍棒と薔薇だ。
制服を着ている時間はこうした雑学がつい頭をよぎってしまう。それが楽しみでもあるのだが。
カバンをつかみ、通学路へ躍り出たヘルガは不意に何を思い出したのか、家からすぐ出たあとの歩道を見つめた。夢で誰かを殺した、場所。酷似していると正夢になるんじゃないか、と思ってしまう。いやないな、と首を振った。そんなつまらない夢なんて忘れてしまおう。
気を取り直して歩く通学路はいつもどおり、平たんな道が続いている。秋であるからか、吹きすさぶ風が首筋をなで、悪寒を感じさせる。首筋をなめられるような淫らな気分にさせられる。
「おーい、ヘルガぁ!」
周囲の日常の風景を楽しみながら登校していると、目の前の横断歩道で一人の男が彼に声をかけた。ヘルガよりも身長がある炎髪の男だ。彼と同じ制服着ており、同じ学年を表す徽章を付けている。
「マックスか」
「おはよーさん。相変わらず時間通りの登校だな」
「そう?まぁ、そうかもね。でもちょっと今日は寝起きが悪くてさ」
ふーん、とマックスはヘルガの話に興味を示した。ヘルガが夢の内容を話すと、マックスはその美女に会ってみたいねぇ、と答えた。
「バラバラ死体って言えばさ、ここ最近この街じゃそういう殺人が起きてる奴っぽいよな」
「え……?……知らないな」
「おいおい、昨日担任が言ってただろ。そのせいで五時完全下校だって」
ああそうだった、とヘルガは昨日担任の教師に教えてもらったことを思い出した。帰りのホームルームの時にそんなことを言われた気がする。クラブ活動に所属していないヘルガからすれば関係のない話だったので忘れてしまっていた。
新学期、新年度早々に物騒だな、と思った記憶がある。
「犯人がまだ捕まっていないんだろ?」
「そうだよ。まさか歴史ある街で殺人とか笑えるだろ。ジャック・ザ・リッパーかよってさ」
「ジャック・ザ・リッパーは女しか殺さないだろ?」
それもそうか、とマックスは応える。徐々に思い出してきた記憶では殺されたのが三人で、男女の区別はなかった。どれもむごたらしい殺され方をした、と新聞には載っていた。
こんな時期に息子を街に残して出張する両親には言いたいことがいくつかあったが、それは帰ってからにしよう。どの道夜間に街を出歩かなければ殺されることはないのだ、と思いたい。
そんな他愛のない会話をしている間に彼らの足は校門の前に到着していた。赤いレンガで形作られた古い時代の遺物の前に。
華美、派手である一方、芸術性も色濃く残しているデイル・アート市唯一の校舎はその広大な敷地を余すことなく使って、当時の大公の権威と財力そして芸術家の側面を如実に表わしていた。
今は校庭として使われている場所もかつては練兵場だった。
今は生徒達の憩いの場として使われている広場もかつては小さな庭園だった。
今は教室として使わている場所もかつては客間だった。
そのすべてが今は生徒の学びの場として使われているのだから、失墜極まれりだ。
教室に入ると、いつもどおりのみんながいつもどおりのグループで話し合ってる。飛び交う話は様々なれど、それらはすべて風景だ。よく見る木、土、車、と何ら大差ない無味無臭のそれでいて離し難い興味を感じさせる風景だ。
「おはよう、ヘルガ君」
「え、ああ。おはよう、ヘクス」
不意のあいさつにヘルガは挙動がやや不審になるが、それを気にせず少女は笑顔で彼を出迎えた。とてもきれいで、彼女の人柄を表しているかのような純真さが見え隠れする笑顔だった。
「マックス君は?いつも一緒でしょ?」
「あいにくと腹を壊したって。なんかここ最近多いんだよね」
「ふーん。そりゃぁ大変だ」
可愛げにマックスの身を案じるヘクスを見て、静かにヘルガは相槌を打った。しかしその視線の先にはただヘクスのことしか見えていなかった。ドレスに似たマスケリア学院の制服が彼女の物腰柔らかな雰囲気と合っていて、とても魅力的に見えた。
それくらいにヘクス・カーシャという少女はヘルガにとって愛すべき対象だった。
この国では若干珍しい青みがかった黒髪、大きい翡翠色の瞳、そしてきめ細かな
たとえそれが横恋慕だとしても、自分は彼女のことが好きだ、とヘルガは言えた。誰に対しても似たような反応をする彼女の挙動一つ一つがたまらなく愛おしかった。その純真無垢な彼女に触れられない自分の在り方がもどかしくなる。
誰にだって優しくできる彼女と、誰にだってどこか距離がある自分の在り方は違っているようで似ている。本質は多分同じなんだろう、とヘルガは思う。決してそれが理解されなくても、そうに違いないと確信めいた何かを感じていた。
だが、それは若者の自己陶酔、自己保存に他ならない。
休み時間、ヘクスが他の女子と話している輪にヘルガは入れない。万人受けする彼女は本質は同じでも歩いてきた過程が違う。愛情を持って育っても同性としか付き合う術を知らないヘルガとそうでないヘクスは顔の似ている別人だ。
どれだけ猫をかぶったような持論を並べ立てても変わらない現実だ。幼い少年の儚い恋は決して報われることはない。彼が一歩踏み出す間に少女は百歩先を歩いているのだから。
彼にとって朝のホームルーム前のゼロ時間目とも言える時間がかけがえのない宝物だった。どれだけ焦がれても手に入らない宝物に触れられる唯一の機会だった。四年間ずっと同じクラスにいて、同じ距離しか歩けない少年のささやかな幸いだった。
それが彼の人生。ヘクスという少女に出会い幸いとなった学生時の思い出かもしれない。
放課後、下校の時になると悲しさがこみあげる。また明日の朝まで彼女に会えない。友人と話しているときも彼女のことが頭から離れず、どこから返答が簡素になってしまう。
話題は出すが、それもいつか口にしたような気がする。このうえなく恥さらしに近い雑音だ。
――それがあの時はなかった。
朝、マックスと会って登校してヘクスと会うまでヘルガの頭の中から彼女のことはきれいさっぱり消えていた。陰惨な夢を見たせいか、それとも夢で見た女性があまりに美しすぎてヘクスが霞んでしまったからか。
どちらかだろう、とヘルガは自分を納得させようとする。自分が彼女のことを忘れることなどありえない。忘れたとすれば、それはきっと自分が自分でなくなったときくらいしかないだろう。
自分はただヘクスのみを愛しているはずなのに、誰かに目移りがした、なんてそれは有り得ないことだ。
ひょっとしたら押し寄せる妄執と取り払うために夢の中の自分は彼女を斬殺したのかもしれない。そう考えるとやはり自分は彼女を愛していたのだ。そう思わなくては自分は他の女に目移りした尻軽男になってしまう。
「ねぇ、そこの君」
だからか、話しかけられてもどこかぞんざいな返事をしてしまった。決して丁寧とは言えない口調で、話しかけてきた女性らしい声に、ヘルガは「ぁあ?」と語気を荒げて答えた。
――あら、随分と怖い顔ね。
刹那、ヘルガの瞳孔が肥大化した。有り得ないほど広がった瞳が皮を破り、目端から細い赤い川が左右から流れた。ありえないものを見た彼の顔は真っ赤になり、体中の血液が沸騰しかけた。
今日の夢で殺した女が今目の前にいる。そのことも驚いている。だが、それはあくまで副産物だ。
彼女の名状しがたい美しさ、それがヘルガに呼吸すら忘れさせて頬を紅葉させ、体を熱くさせた。儚げで妖艶、純真さと情熱を抱き合わせたかのような、筆舌し難い美の化身が三日月型の笑みを浮かべていた。
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