愛しています、死んで下さい。

賀田 希道

第一章 停滞を求めた魔女

第1話 彼は愛を知った

 ――僕は刺激を求めて、ナイフを握った。


 大きさはさほどない小さなナイフ。それを持って特に考えることもなく、街中にさまよいでた。


 意識という概念を捨て去って、気の向くまますずろに歩き回ることがどれだけすばらしいことか、知るすべはない。


 ガス灯がおぼろげに光る夜道は暗く、足元もおぼつかない。踏んでいるのが歩道なのか、他家の芝生の上なのか判別できない。ただ道沿いにならぶガス灯だけが車道の位置を教えてくれる。


 ガス灯の真下だけが煌々と照らされて、それが等間隔にどこまでもどこまでも伸びていた。人が歩いてくれば遠くてもシルエットで察せられる。


 ――そして僕は血にも似た赤い女を見つけた。月明かりすら赤く染めあげる彼女という存在を見て、ヘルガは手に持ったナイフを強く強く握りしめて、笑顔で話しかけてきた彼女を荒ぶるままメッタ斬りにした。


 美しい貴女。

 抵抗もなく、廿一にじゅういちに斬られた貴女。


 それはまるで夢のような光景だった。平和な日常にこぼれた一滴のシミがまたたく間に広がっていく。


 人を殺した、という実感が熱湯に似てじんわりと肌身に広がっていくのをヘルガは感じた。


 サクッと人に刃を突き立てたとき、ナイフ越しに伝わる充実感はアリをすりつぶしたり、捕まえたカマキリの足を一本一本ちぎっていくのとは違う、命の重みを真正面から感じとることのできる実感を与えてくれる。


 ただその美しい、すばらしい体験はヘルガには刺激的に過ぎた。あまりの美しさに彼の思考は遠のいて、次第に常識が認識を塗り替えていった。


 平時の自分に戻っていく。せっかく得た開放感は薄れ、ただ一つの感情だけがヘルガの心に残った。


 ――これは夢だ。

 きっと何か重いものが腹の上に乗っているに違いない。明晰夢とわかっているなら冷めて欲しい。


 目の前に広がるおびただしい量の血がヘルガの精神を犯していく。目の前の非日常的な死の残骸が彼の思考を鮮明化させ、次いで鈍化させていく。その繰り返しが刹那の間に数万回はヘルガの脳内で行われただろう。


 おそらく、彼の人生の中で一番脳みそを使った瞬間だっただろう。

 頭が疲れ切り、徐々に濁点が視界を覆っていった。インクに似たそれがヘルガの意識を奪っていった。

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