第8話 美術館
暗い夜。冬の空。星座は昨夜と変わらず、人通りのない夜道もなんら変わりない。ローファーとアスファルトが重なった時になる濁音も、ガス灯の炎の色も、何もかも変わることはない。
いつも学校に行って、少ない友人と笑い合って、恋慕を抱いていた少女をチラ見して、家に帰ったら学校で起きたことを両親に少しだけ話す。テストの内容だったり、体育での出来事だったりだ。
休みの日は日がな一日家で本を読んだり、星の観察をしたりする。家の中には九歳の頃に買ってもらった天体望遠鏡があるし、それで星の海を覗くのはとても楽しかった。
もし許されるなら一生その一週間を送っていたい。たまの連休はデイル・アート市の森林部にある河川でバーベキューをしたりする。父親の焼く肉がとても美味しかった。
とてもあたたかくて、入浴剤が入った
庶民が風呂場で、一人で味わえる精一杯の贅沢だ。
――だが、その湯も中身が排水を茹でたものと知れば急に冷めてしまう。己が毒に侵されている、と知れば眠りは覚めてあとに残るのは後味の悪さだけ。死ぬという運命が変わらずとも、毒沼で死にたいと思うのはステープルトン信者だけで十分だ。
そう思って毒沼から踏み出したヘルガを待っていたのは、無音の闇だった。
あたり一面、真っ暗でほのかに光るガス灯だけが歩道と車道の境界線を照らしてくれている。車がない今ならどちらを歩いても構わない。普段めったに、いやひょっとしたら生まれてはじめて車道を歩く気分は爽快極まれる。
ましてそれが傍らに美女を伴うなら、気分はレッドカーペットを歩くハリウッドスターだ。
なるべくガス灯の近くを歩き、なるべく先が見える位置を歩くヘルガ達は見知った道、見知ったストリートを縫うように歩いていき、そしてようやくデイル・アート市中心街へとたどり着いた。
デイル・アート市の中心街はかつての宮廷建築家や彫刻家が建てたり、彫ったりしたたくさんの芸術品が展示され、それは夜闇の中ガス灯に照らされくっきりとその細かな細工や意匠を露わにしていた。
中央広場ことハンギング広場もここにある。広場のシンボルとも言えるサン・ピエールの絞首像はかつて王侯貴族が処刑された際、その指導者であったサン・ピエールという政治家を皮肉って置かれた銅像だ。
実際にその銅像が設置された八ヶ月後にサン・ピエールが処刑されたのだから、因果がめぐる話だ。
そんなデイル・アート市の中心地にヘルガ、レア、そしてアルバの三人は立っていた。周囲を芸術品の数々で囲まれ、ほのかな灯りだけが灯る静まり返った無人の街の中にたった三つの影が伸びたり縮んだりを繰り返していた。
「なんで、ここに来たんだ?」
中心街の観光スポットの一つであるデルⅧ世の銅像を眺めながらヘルガが虚空に向かってつぶやいた。夜中に突然アルバが出るぞ、と言って言われるがまま着いてきたが、詳しい説明は一切受けいなかった。
よもや都市観光に来ました、ではないだろう。確かに見どころの多い街ではあるが、一年以上も街の中で過ごしたならもう見るべきものはすべて見ているはずだ。
ではなぜ、とヘルガは頭の中で考えを錯綜させる。
一番考えられるのはこの中心街のどこかに状況を打破し得るなにかが隠されているという可能性だ。
でもそれならなんで今の今まで取りに来なかったのか、という疑問が生じる。昼頃のレアとザンニの戦闘を見ればわかるように、彼女の身体能力は驚異的だ。今の今まで便利アイテムを放置しなくてはならないほど、力量が劣っているわけでもない。
次に考えられるのは中心街になにか仕掛けをしにいくという可能性だ。都市の崩壊が近づいている、というアルバの言葉を信じるならばより壊れやすくする、というのは理にはかなっている。
レアやアルバにとってこのデイル・アート市は邪魔でしかない。実際ヘルガも壊れてもいい、と思っている。まどろみにずっと浸かっていたいのは山々だが、レアという紅玉を前にしては理想などゴミ箱にポイだ、ポイ。
だからもし
そういえば、とふとヘルガは朝頃のことを思い出した。
ヘクスと朝のホームルーム前に話しているとき、彼女を美しいと思った。あのあどけない表情が、無垢な少女の瞳が愛らしく思った。
ちょうど今目の前を通り過ぎた聖テレシアのように慈愛、情愛の感情を常に抱いているかのような印象を受ける、尊敬すべき少女だった。
聖テレシアと同じく、誰に対しても分け隔てなく友情をふりまく彼女が好きだった。尊敬していた。
――その彼女もひょっとしたらもう死体なのかもしれない。両親も死体なのかもしれない。街にいる人間の九割が死体とアルバが言ったことを信じるなら、90パーセントの確率はあまりに大きい。
されど、それがどうしたというのだろうか。
すでに彼が愛する対象が見つかってしまっては、それらの存在は些事だ。どれだけ会っても、探しても、彼女を超える紅玉を見つけることはできない。
そんな無為な思考を遮断したのは原因たる彼女の一言。
「着いたわよ、ヘルガ」
レアリティ・トゥルク・オールレアの一言でヘルガは顔をあげ、目の前の建物を視界に収めた。
「ワイズ・ビィウテ博物館、か」
デイル・アート市唯一の博物館であり、かつてこの地を治めていた大公家ゆかりの品が多数寄贈されている雑多市。古いものを飾っていることだけが売りではなく、この博物館の建物もかつては市の庁舎として使われていた。
ガラスと黄色の二つのドーム状の建物にギリシアの神殿の要素を組み込んだ、異色極まる建造物だが、当時としてはガラスのドームというのは珍しく、かなり異彩を放ったらしい。
中心街南部にあり、やや外れた場所にあるこの建物は革命の折、大公軍が拠点として使われていた、という話もある。
その軌跡をたどるのもまた博物館の醍醐味と言えるかもしれない。実際、博物館の中で新しい部屋が見つかった、という話も六年前に聞いたことがあった。
そんな今でも探索しきれていない博物館にレアとアルバは大手を振って入っていった。慌ててヘルガは彼女らを追うが、早々に二人の歩みは止まった。
当然のことだが、深夜に開いている博物館などない。固く閉ざされた門を見て、レアは頬を膨らませた。
「壊せよ」
「無理よ。どこぞの誰かさんのせいでわたしは今力出せないんだから」
え、とヘルガはつぶやいた。うっかり聞き逃してしまいそうだったが、レアが今口にした言葉は寝耳に水だった。
「どういうことだよ、力が出せないって」
「言葉通りの意味よ。あんな滅茶苦茶にぶった切ってくれちゃって、まともな活動ができると思う?まだわたしの体は完治していないの。でなきゃザンニなんかに腕を潰されるなんてことあるわけがないわ」
ザンニとの戦いですぐに治った腕や、その後にただれた手が即座に治ったり、目に見えない速さで動いたせいで勘違いしていた。肉塊にした次の日には五体満足で現れたレアを見て、大丈夫だったんだな、と思い込んでしまっていた。
思い返してみればレアは再生する兆しがなかった。
一昨日の夜、ヘルガが滅茶苦茶に切り刻んだ彼女は文字通り屍となって、動くことはなかった。
しかし今日ザンニに潰された腕はすぐに再生し、ただれた手もすぐに再生した。
――傷の深さが違った。
レアは赤みを帯びた口唇を左右上下に動かして、ヘルガの疑問に答えを出した。
「君の『異能殺し』はそれくらいに危険なもの、ということよ。わたしみたいな人外一色の人間を殺したいほど憎んでそれを実行するくらいにはね。多分、異能はもちろん、異能に触れた人間さえも嫌悪の対象にするでしょうね」
「じゃぁ、レアに触る時は左手で触ればいいのか?」
「さあ?全身が、ということはないでしょうけど、両腕が『異能殺し』なんてのもありえるかもしれないわよ」
言われてヘルガは寝室の壁がぶっ壊れたときにレアが自分を押し倒したとき、肌とかに触っていたことを思い出した。
確かにレアの存在を加味して、己の能力を考えれば切り刻まれていてもおかしくはない。切り刻まれなかったということは体すべてが『異能殺し』ではない、ということだ。
「あー、お二人さん。で、どうするんだ?目的地に着いても開かずの扉じゃ話にならんぞ?」
勝手な会話を始めそうになったヘルガとレアを前にして、扉を叩きながらアルバが口を挟んだ。言われて首を扉へ向ける二人の表情はどこかげんなりとしていて、嫌そうに鋼の扉を眺めた。
ヘルガの記憶が正しければ、二百年前に建てられた庁舎を守る、という目的で当時の王と大公が金をつぎ込んで造らせた元は青銅の扉だ。その後の革命で色々あり、現在は分厚い鋼で再建されたものが目の前の扉だ。
全長にして7メートル。幅は4メートル。厚さは知らないが、20センチをはるかにこえているだろう。かつて朝早起きして両親と一緒に扉が開く瞬間を見に行ったことがあったが、重厚感あふれる扉が重低音を奏でながら開くの圧巻のひとことに尽きた。
「アルバの異能でどうにかできないの?言っちゃなんだけどただの鉄の扉だよ?」
「オレは火力バカじゃないからな。お前らがザンニと遊んでたときにここに来て、厚さを調べてみたけど、オレじゃ穴どころか焦げ跡付けるのが精一杯だよ」
だから、とアルバはレアに視線を向けた。視線を向けられたレアは若干むすっとした表情で返す。役立たずで悪かったなぁ、と言っているようだった。
じゃぁどうする、とアルバにヘルガは問いかける。しかしアルバから答えが返ってくることはない。完全に状況は行き詰まっていた。
「午前中に来れば……」
「それができないから今来てるんだろ。昼に来りゃ、人の目がありすぎる」
「そもそもここに何があるんだ?僕は何も聞いていないんだけど」
ヘルガは首をかしげる。レア、アルバの二人がここに来る、ということはよほどのものがあるのは確かだ。しかし、その正体がわからなければどうすることもできない。
レアも視線だけアルバに向ける。二つの眼に睨まれて、アルバは観念したのか、扉によりかかりながら話し始めた。
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