第11話 前任者
僕の体はかっと熱くなる。信頼されていると言われて胸がほんわかしたもので満たされる。誰かに信頼されている、そして、そのことを告げられるなんてことは滅多にあるもんじゃない。僕はおだてに弱いのは自覚している。それでも、そんなことを言われたら逃げるわけにはいかないじゃないか。決して紫苑さんの手の感触が心地よかったからじゃないぞ。
「そういうことでしたら、微力ながら協力させていただきますが、あと二つ伺ってもいいですか?」
紫苑さんはキャビネットの上の時計に目をやる。
「あまり時間がないので手短に」
「えっと。説鬼が現れたら倒すしかないんですか?」
僕の作品の登場人物全てがマッチョだったり武器を携えたクールな女性だったりするわけじゃない。僕を庇ってくれるのは嬉しいがむざむざ殺されるのを座視したくはなかった。
紫苑さんは目を細める。
「優しい方ですのね。ええ。必ずしも倒さなくてはならないわけではありません。奴らが実体化できるのはせいぜい30分。その間あの爪から逃れることが出来れば彼らは元いた世界に戻っていきます」
ああ。良かった。ジョギングをしてきたことが役に立つかもしれない。僕はほっとして次の質問をする。
「僕が選ばれた理由は分かりました。それで、このノートパソコンの前の持ち主は誰だったんですか?」
有名な作家だったと以前聞いた。それにあやかるつもりは無いが、いや、あやかりたい。
「本庄真人さんです。ミステリーや時代小説を中心に活躍されていました」
ホンジョウマサト? そんな作家いたっけ? 記憶にないな。
「えーっと、勉強不足で申し訳ないです。有名な方なんですよね?」
紫苑さんはためらいを見せる。
「ええ。有名な方でした」
でした。なぜ過去形なんだろう? あ……。
「ひょっとしてその方は既に……」
「ええ。亡くなりました。説鬼の手にかかって」
「それじゃあ、僕がその人を知らないというのも」
「はい。もう作家として覚えているのは私たちぐらいでしょう」
そんな。僕も死んだらそうなってしまうのか。聞かなきゃよかったかもしれない。
「私たちって。さっきもそう言いましたね。紫苑さんの他にも仲間がいるのですか?」
紫苑さんはすうっと立ち上がる。
「コーヒーご馳走様でした。そろそろ行かなくては」
リビングを出て廊下を足早に進むと玄関のドアを開けて出ていく。一瞬だけ振り返ると一言だけ残して消えた。
「ご武運を」
僕はあっけにとられる。来るときも唐突なら去り際も慌ただしい。手の甲に残るすべらかな感覚を思い出しながら未練がましくドアを見ていた。もっと情報が欲しいというのもあったが、純粋に紫苑さんと一緒にいるのが楽しくなりつつあったのだ。
もし可能なら恵理の登場した作品の感想なんかも聞いてみたかった気がする。もしかするとけちょんけちょんに貶されるかもしれないけれど、紫苑さんになら言われてもいいような気分だった。はっ。何を僕は考えているのだろう。彼女は別に僕の作品を評価してくれている訳じゃない。
単に作品の数が多くて、途中で話を放り出したりしない。その点を認めてくれているだけに過ぎないのだ。それが紫苑さん達の目的にうまく合致した。それだけのことなんだ。そう思おうとするが、そんなことでも他人に評価されたことが嬉しくて仕方ない。
すっかりぬるくなってしまった保冷剤を交換して額に当てる。ひんやりとした感じが浮足立った気分を落ち着かせるのに効果があった。さて、結局のところ、僕がこのやっかいな仕事というか任務を押し付けられたのには変わりがない。強く他の人に、と主張すれば逃れられたのかもしれないが、もはや手遅れだ。
紫苑さんも忙しいようで、次の晦日までに会える保証はない。ということは最低でもあと1回は説鬼の襲撃を受けることが確定したわけだ。僕の御守りであり、厄介ごとの原因でもあるノートパソコンを眺める。もう、どこを押しても反応しない。
まあ、仕方ないか。取りあえず僕の場合は外れくじはないということを確認できただけでも良しとしよう。たぶんそうじゃないかとは思っていたけれど、そのことをはっきりと言ってもらえたのは安心だ。それに、僕の書いている話は割とアクション系が多い。呼び出す登場人物も頼りになりそうな顔ぶれが多かった。
少し心配なのはラブコメと自称している作品がそれなりの数含まれていることだ。10分間経てば2回目にダイスを振るチャンスがあると言っていたから、その間は手に手を取り合って逃げ回るしかないだろう。10分間の命がけの鬼ごっこか。これからは長距離走れるだけでなく、瞬間的にスピードを上げる練習もしたほうがいいかもしれない。
それと、屋内にいるというのは逃げ場がなくなるだけで危険だ。次回は外にいることにしよう。できるだけ開けた場所がいいかもしれない。そんなことを考えていたら頭痛がしてきたので寝ることにする。幸いなことに夢に出てきたのは紫苑さんだった。
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