第12話 アフォガート
翌朝目が覚めるとモフモフした大判の枕をぎゅっと抱きしめていた。ま、その、なんだ。誰かのつもりでハグしていたのだろう。その誰かの背筋がゾゾっとしなかったことを祈るしかない。スウェットのまま寝てしまったので、変な皺がついているがそのまま走りに出た。
明け方まで降っていたのだろう。どんよりとした空気で蒸し暑いが、今は雨粒が落ちてくることは無い。すぐに汗が噴き出した。それでも日課の距離を走り、整理運動の後にダッシュの練習をする。いざという時にはこれが運命を分けるかもしれないと思い、100メートルの全力疾走を10ほどやった。
全力疾走とは言っても、かなり遅い。僕は持久力は人並みにはあるみたいだけど、瞬発力はほとんどないようだ。たぶん、小学生にも負けるだろう。それでも練習あるのみだ。念入りに柔軟をして筋肉をほぐすと家に帰ってシャワーを浴びる。おでこはまだ少し膨らんでいたが赤みはだいぶ引いた。
その膨らみも2・3日で消え、僕の生活はいつものペースを取り戻す。生きていくためには少額といえども日銭を稼がなくてはならない。以前と同様に店を開けて、コーヒーを提供し店を閉める。そして、週末を迎えた。僕はノートパソコンの外寸を測るとかばん屋に出かける。
ノートパソコンは3キログラムぐらいの重量がある。最近の軽量薄型のものとは違ってはっきり言ってごつい。その分、堅牢そうで多少の手荒な取り扱いにも耐えそうだったが、これを持って走るとなると大変だ。そこで肩から提げられてしっかりと固定でき、かばんを開けるとそのままパソコンの画面も開けられる。そんな鞄を探しに来たのだ。
なかなか僕の測ってきた寸法に合う鞄は見つからない。店員さんも採寸を間違って無いか聞く始末だった。それでもなんとか最後には見つかった。少し大きめだがそこは工作すれば何とかなりそうだった。ホームセンターに寄って必要な材料を揃える。
家に帰って早速作業に取り掛かった。鞄とノートパソコンの間の隙間にはクッションとなる緩衝材を詰め込み、本体部部を結束バンドで鞄に固定した。ヒンジ部分の近くと手前のパッドの部分の2か所でしっかりと固定をする。肩から提げてみると悪くない。
鞄は取っ手の側のボタンを押すとワンタッチで開くようになっている。襷がけにした鞄を腹の前に持ってきてボタンを押し、出てきたノートパソコンのモニターを開く。練習すればここまで2秒とかからない。これなら10分間走れ回った後にすぐに2回目のダイスが触れるはずだ。
問題はこの鞄を肩から提げて走ることだった。本体プラス鞄の重さで5キログラム強の重さがある。走るたびに腰にガンガンとぶつかった。5キログラムの追加ウェートは僕のような体力の無いものにとってみればかなりの負担だ。初めて鞄を提げて走った日にはいつもの距離が走れなかった。
何度か試行錯誤をするうちに、肩ひもを短めにして鞄を背中に回すと走りやすいことが分かる。それでも5キログラムの荷重は辛いものがあった。体重が一気にそれだけ増えるようなものだ。そう簡単に慣れるものではない。それでも1か月の時間で慣らしていく。
いつの間にか梅雨が明け、夏がやってくる。お店でもホットよりはアイスの方が出るようになり、製氷機がフル回転するようになった。無糖のアイスカフェラテは暑い時期に最高だ。いくらでも飲めてしまう。ジョギングの後にゴクゴクと飲む。運動後に牛乳が体にいいのかは知らないけれど旨いからそれでいいのだ。
店では冷やし中華始めましたならぬアフォガート始めましたのポップを出す。アイスは業務用の既製品を使っているのだけれど、自家製のラムレーズンを混ぜ込んである。それに熱々のエスプレッソを注いだアフォガートは夏にぴったりの品だった。作るたびにコーヒーとラム酒の香りが立ち上る。
アフォガート。イタリア語で溺れるとかいう意味らしい。溺れる者は藁をもつかむ。僕にとっての藁はノートパソコンであり、そこから呼び出す僕の可愛い子供達。子供頼りの情けない親だ。できる限りは負担にならないようにするので許して欲しい。
次の晦日の夜になると僕は支度をして家を出た。履きなれたランニングシューズの紐をきちんと結び直す。肩からはノートパソコンが入った鞄と給水用のボトルを提げた。準備万端とはいかないが、できる限りのことはすべてやったはずだ。家を出て、繁華街に向かう。
最初は大きな公園にしようかと考えたのだが、複数体を相手にする場合、あまり広い場所だと包囲される恐れがあった。説鬼にどれだけの知能があるかはよく分からない。これも今度紫苑さんに聞かなくちゃ。もし、そのチャンスがあったらだけど。
女性のグループが僕の方をチラチラと見て何かヒソヒソ話している。ああ、異様な格好だろうよ。ほっといてくれ。良く晴れている空を見上げると細い月が力なく光っていた。その月が毒々しい赤色に染まり、また世界が反転したような感覚に襲われる。同時に僕は鞄をパカンと開けていた。
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