第6話 ぐだぐだ
紫苑と名乗る女性が去ってしばらく僕はぼーっとしていた。はっと我に返ると玄関の戸締りをする。あの怪物が入ってくるかもしれない。そんな妄想が浮かんで、慌ててリビングに戻った。テーブルの上に鎮座しているノートパソコンを見て少しだけ安心する。僕のお守りだ。
テーブルの上の空きカップを片付ける。コーヒーの香りに混じって何か嗅ぎなれない臭いがした。きっとあの女性のものなのだろう。久しぶりに誰かと世間話以上の話をした気がする。お店ではお客さんと挨拶以上の話をすることはなかった。話の中身は殺伐としていたけれど、相手が若い女性というだけで心が浮き立ってしまう自分が情けない。
片付けものをした後に風呂を沸かして入ることにした。今日は暑かったし、変な汗も一杯かいた。バスルームに入って熱いシャワーを浴びると頬に一瞬だけピリッとした痛みが走る。浴室の鏡に映して子細に見てみたが傷はどこにも残っていない。ただ、あの時に怪我をしたのは間違いのない事実だということを思い出させる。
湯船につかるとホウという声が漏れた。ちょっとおじさんが入ってきたかもしれない。会社勤めのときのアパートにはシャワースペースしか無かったので湯船があることがうれしい。唇のところまで水面下に潜らせた。ゆらゆらと揺れて見える自分の下半身は一言で言えば貧弱。
それほど無駄な肉はついていないと思うけど筋肉もない。今日の恩人なら僕なんて腕一本でペチャンコにしてしまえるだろう。あ、足一本か。作中では詳しく描写しなかったけど、ブラジル帰りでカポエイラを嗜んでいる設定なんだったっけ。ダンスのようなステップを思い出す。
僕も訓練をすれば少しは強くなれるのだろうか? まあ、無理だろうな。僕に残された時間はあと1か月弱。そんなに簡単に体を鍛えられたら苦労はしない。ただ、戦えないにしても足を引っ張らない程度にはならなくちゃな。あの怪物の足が速いかどうかわからないけど、走って逃げることぐらいはできるんじゃないか。
今度、紫苑さんに会ったら教えて貰わなくちゃ。あの異常な空間から脱出するための方法とか、どうやったら生き延びることが出来るのか? 今日の出来事からすると襲ってくる怪物を倒したらいいのだとは思うけど、いつも3体ではないような気もする。
怪物を倒せる登場人物かどうかは運しだい。今日は運よくあの作品が選ばれて、あの巨漢が怪物を瞬殺した。別にこの事態を予測していたわけじゃないけれど、戦闘能力の高い登場人物だったのは助かった。そういう設定にしておいて本当に良かったと思う。
とんでもないタイトルから作品を作るという自主企画に参加してなければ、この作品は書いていなかったわけで、そうしたらどの作品だったのだろう。散歩に出かけて紫苑さんに会わなければやっぱりダメだったろうし……。ふう。幸運が重なって生き延びたんだなあと改めて感じる。
僕自身ははっきり行って弱い。戦闘力なんて無いに等しい。別にこの世にそれほど未練があるわけじゃないけれど、僕を守るために登場人物の誰かが倒れて、僕の作品が消えてなくなるとしたらそれは悲しい。少なくない時間とたいして無い脳みそをフル活動して綴った作品たちだ。願わくば末永く読まれて欲しい。
風呂から上がって体はさっぱりとしたが、心の方はすっきりというわけにはいかなかった。さっき、紫苑さんにつきあってエスプレッソを飲んだせいか胃の辺りがモヤモヤする。何か食べなくちゃ。とはいうものの食事を作る気にはならないし、かといってコンビニエンストアまで出かける気力もない。
冷凍しておいたご飯にお茶漬けの素をかけてお湯を注ぐ。さらさらとかき込んだ。こんな状況で食事が喉を通らないかと思ったけれど、意外と普通に食べられた。お茶漬けだったからかもしれないけれど、僕は意外と神経が太いのかもしれない。そんなことはないか。あまりに奇想天外すぎて脳の処理が追いついていないだけだろう。
ひょっとすると正常化バイアスというやつかもしれない。いつもの生活を送っていれば大丈夫。きっと今度もなんとか助かるさ。それにまだ1か月もあるんだ。そうやって思い込むことで発狂するのを防いでくれているのだろう。食事の後のほうじ茶を飲みながらとりとめもないことを考える。
下手な考え休むに似たり。くよくよ悩んでも仕方ない。こういうときは寝ちゃおう。洗い物は明日にすることにして流しに放り込み2階の寝室に向かう。こういう事態になると家の広さは自分が一人だということひしひしと感じさせる。物陰に怯えながらベッドに潜り込んでふとんをひっかぶる。
なかなか寝付けないかと思ったがすぐに眠った。某まんがの主人公並みに寝つきがいいのは僕の特技だ。夢を見る。びびりな僕はもちろん、夢の中でもあの爪の長い説鬼にさんざん追い回されて死ぬ思いをした。
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