第7話 いつもの日々

 あの日以来、何もないまま日々が過ぎて行った。店を開け、お客にコーヒーを出し、食事を食べて、風呂に入り寝る。ごくごく普通の毎日。あの日の事はやっぱり夢だったのかと思ってしまう。傷でも残っていれば忘れることはないのだろうけど、幸か不幸かそれもない。


 そして、すぐにでも再訪してくれると思っていた紫苑さんも僕を訪ねてくれることは無かった。次の晦日が近づくにつれて、僕はだんだんと不安が増していった。紫苑さんの連絡先を聞かなかったのが悔やまれる。初対面の女性の連絡先を聞くなんてまねは僕にはとてもできなかった。


 ただ、事は僕の命にかかわることだ。恥も外聞も捨てて連絡先を聞いておけば良かったのだが後悔先に立たず。店に立っている間はまだいいのだが、夜や休日はそわそわと呼び鈴が鳴るのを待ちわびる。しかし、待てど暮らせど紫苑さんはやって来ることが無かった。


 インターネットで説鬼という単語を検索してみたが、タイトルに鬼という言葉を含んだマンガのことしか出てこない。違う。僕が知りたいのはそんなことじゃない。晦日や赤い月という言葉を含めて検索しても何も出てこない。そうこうする間に日々はどんどん過ぎていく。


 開店前に少しジョギングをするのを新たな日課にする。最初は1キロも走れなかった。一応、高校ぐらいまでは体育の授業などで5キロぐらいは走れていたのに情けない。終わったら膝が痛いし、肺も焼けるよう。その夜には筋肉痛まで出る。効果が出てるのだと自分を慰めて、翌日も歯を食いしばって走った。


 季節はあいにくの梅雨の時期。朝から既に降り始めている日などは行くのをやめてしまおうと思わないでも無かったが、その度にあの恐ろしい姿を思い出すことにした。少しずつ走る距離を伸ばしていく。面倒だったが命あっての物だねだ。背に腹はかえられない。


 仕事と同様に小説の更新も普通どおりに行った。暢気すぎるかもしれないが、書くことは生きること。これを止めたら生きている意味がない。ひょっとすると紫苑さんが見てくれるかもしれないと近況をかけるページにメッセージを忍ばせることも考えたが、何と書けばいいか思い浮かばずやめた。ストレートに書いて事情を知らない人が見たら頭がおかしくなったと思われるだけだろう。


 それになんとなく、当日になればまたどこかで会えるんじゃないかと期待していた。前回も紫苑さんが現れたのは怪異が起きるその日だった。あの不思議な雰囲気をまとった女性にも事情があるのかもしれない。なんか事情もありそうだったからと自分を納得させる。


 そして、ついに当日を迎えてしまった。


 今日も朝からしとしとと雨が降っている。今では日課になったジョギングをすませてシャワーを浴びた。息はあがるが5キロは走れるようになっていた。目玉焼きと納豆と味噌汁の朝食を作って食べる。暖かいご飯の上に目玉焼きを乗せて半熟の黄身をちょっと箸の先で崩して醤油を垂らした。いただきます。


 今日もご飯が美味い。卵を食べ終わり、納豆とご飯を海苔で包んで口の中へ。海苔の香ばしさとふくよかな納豆の旨味が調和する。やっぱり日本人なんだなと思った。飯が美味いというのは素晴らしいことだ。下手をすればこれが最後の朝食になるかもしれないと良く味わって食べた。


 卵と納豆は安いので僕のような節約生活を送っている人間には非常に助かる。しかも毎日食べても飽きない。でも少しは変化をつけても良かったかもな。どうなるか分からないのだからと辛子明太子ぐらい買って来て食べれば良かったかもしれない。稼ぎがあまりないのでなかなか買えない好物のことを思い出す。


 食器を片付けて表に出ていき、開店準備を始める。鎧戸を開けてすべての窓も開放した。生暖かい湿った空気が入ってくる。店の隅々まで箒で掃き、テーブルとカウンターを台布巾で磨いた。流しの所にかけてあるタオルを新しい物に交換し、それから一晩しか経っていないけれど念のためにエスプレッソマシンに通水する。


 そして、窓を閉じるとエアコンのスイッチを入れる。エプロンをしめて、頭に三角巾を巻いた。店の中を見渡して準備が整ったことを確認すると自分のための1杯を淹れる。お店の中にコーヒーの香りが広がっていく。いつものカフェラテをゆっくりと味わった。このひとときは僕が1日の中で一番好きな時間かもしれない。


 自分が使ったカップを丁寧に洗って乾燥台の上に伏せて置く。時計をみると8時まであと3分。少し早いが開店することにする。お店全体の明かりを点けて扉を開け、オープンの札をかけた。


 この辺りに勤めているサラリーマンが出勤前に寄って行くのだろう、何人かのお客さんが入ってきてすぐに忙しくなった。少しアイドルタイムが入り、お昼のピークが過ぎ、夕方近くなっても紫苑さんは現れない。何も考えないようにして黙々と仕事をこなし、17時になったので店を閉めた。


 掃除や片付けをしてリビングに戻ると時計はもう少しで18時になるところ。不安からか爪を噛んでいることに気がついてやめ、気付くとまた爪を噛んでいる。そんなことを繰り返しているうちに、覚えのある異様な感覚が体を襲い、あの日以来どうやっても電源が入らなかったノートパソコンの画面が明るくなった。


 

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