第2話 あやしい売り子
僕が死にかけている12時間ほど前のこと。
今日は土曜日。喫茶店はお休みだ。サラリーマン時代には手に入らなかった完全週休二日制を実施すべく、土日は営業しない。だって、働きたくないんだもの。それにお客も入りそうにない。2階は自宅になっているので、だいたい分かる。休みだと知って残念そうに帰る客なんて見たことがない。
以前は数少ない休みの日は寝てばかりだったが、ゆるゆるとした健康的な生活を送っているせいか、きちんと朝になると目覚めてしまう。デートの約束があるわけでも無し、やらなければならないことがあるわけでもないのではあるが、起きてしまったものは仕方ない。
階下に降りていき、カウンターの内側に入る。冷蔵庫で寝かしておいたフレンチトーストの種とバターを取り出すとガスコンロにフライパンを乗せた。バターをたっぷりと入れてなじんだところで、しっとりと卵液を吸ったパンをフライパンに投入する。両面をきつね色に焼き上げて皿に移した。
マシンのボタンを押して、カフェラテを作る。さすが業務用のマシンだ。ボタン一つで最高にご機嫌なカフェラテが出来上がりいい香りが広がった。楽ちん楽ちん。ちなみにフォームミルクは好きじゃないのでカプチーノにはしない。小さなこだわりだ。
スツールを引き寄せて、フレンチトーストにかぶりつく。カリっとした食感とバターの塩気に引き続き、卵と砂糖と牛乳のふわっとした甘さが口いっぱいに広がる。美味い。自画自賛だがお店で時々スペシャルメニューとして出すと売れ行きがいいので世間的にも評価は高いのではないだろうか。
美味しく作るコツは寝かせる時間だ。卵液は吸いが悪いので24時間浸けておくだけで仕上がりが随分と違う。準備に時間がかかるのであまり多く作って売れ行きが悪いとロスになってしまうので多くは作られない。だから、ほぼいつでも売り切れで食べられたらラッキーという一品。
お腹がいっぱいになったのでどうするか考える。外は梅雨の合間の晴れ間で天気がいい。蚤の市をやっていることを思い出して、散歩がてら行ってみることにした。お店で使う食器類は経費削減のために正規ルートでは購入しない。数を買わないし、揃いである必要がないのでそれで十分だった。
前評判のいい映画を見て、お昼を食べてから、テクテクと1時間ほど散歩をして会場となっている神社にたどり着く。天気がいいせいか多くの人出でにぎわっていた。ぶらぶらと食器を出している店を中心に見て回る。皿や鉢は多く出ているもののコーヒーカップはあまり出ていなかった。
あっても大ぶりのカップで僕が欲しいと思っているデミタスカップはあまりない。モスクのドームを思わせる青色に金泥で縁取りしているものは惹かれたが、お値段が高すぎる。お店に出すには立派過ぎた。彼女を招いてもてなすにはいいかもしれないなあ、と不毛な想像をしながら思案する。
やっぱり無駄遣いだなと思いなおして、境内の一番突き当りまで行った。結局今日は掘り出し物はなしか。別に今すぐ買わなければいけないわけではないので気が楽なものだ。こういうのは出会いが大切。あるときはあるし、無いときは無い。さて、そろそろ引き上げようと来た道を戻っていく。
ふと目にとまったその店は周囲から浮いていた。別に店構えが変わっているわけではない。ただ、店主が変わっていた。顔を黒いベールで覆いつくし小さなテーブルの前にちょこんと座っている。テーブルの前にクッションを置き水晶でも乗せていたら良く似合いそうだった。
店に置いてあるものが一風変わっている。今ではもう見なくなったワープロ専用機や古いブラウン管モニター、枕にできそうなほど分厚いノートパソコンなどが置いてある。秋葉原の雑居ビルの5階あたりが似合いそうな品揃えだった。
さっきまではこんな店はなかったと思うけどな、と思いつつ前を通り過ぎようとする。別に珍しいことじゃない。一時的に商品にカバーをかけて中座することもあるし、それほど熱心じゃなければ、開場時間からずっと店をださない店主もいる。
「そこのお兄さん」
涼やかな声が聞こえてくる。まるで鈴の音のようなコロコロと転がるいい声だった。ついベールの女性を見てしまったのは奇異ないでたちに興味があったのだろうか。そして、僕は見えるはずの無いベールの向こうの目と目が合ってしまった気になる。
「僕ですか?」
声が綺麗ならベールの下の顔も綺麗かもという下心がなかったとは言えない。近づいていくと女性はコクリと頷いた。
「あなた様は物語を書かれていますね」
初対面の女性にいきなり作家活動をしていることを見透かされて動揺する。
「え? どうして?」
「匂いで分かります」
ベールの向こうでほほ笑んだのを感じた。
「それでしたら、こちらのラップトップはいかがですか? きっとあなたのお役に立つと思いますよ」
「まだ、生きてるの? このパソコン?」
「もちろんです」
ついつい手に取ってしまうとズシリと重い。今の薄型軽量ノートパソコンとは比較にならないほどだった。
「これを使うと次々と創作のアイデアが湧いてくるとでも?」
普段は口にできないような軽口が飛び出す。
「ええ」
女性は有名な作家の名を挙げる。
「その方が愛用していたものですのよ。亡くなる直前まで。その創作魂が乗り移っています」
「それは凄い」
口調に揶揄が混じったのを感じたのだろう。女性はとんでもないことを口にした。
「新巻さん。信じられないかもしれませんけど、これは大切なことですのよ」
「なぜ、その名前を……」
初対面の女性が自分のペンネームを口にしたことに僕は愕然とした。
「こちらをお持ちにならないと、今日があなた様の命日になりますわよ」
女性はベールをあげ、切れ長の目で僕を見据える。自然と僕は財布を取り出していた。
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