第3話 10面体ダイス

 僕は必死に後ずさる。ずりっずりっ。ひっくり返ったカエルのような不格好な姿をさらしながら少しでも長い爪を生やした怪物から離れようとした。怪物は僕の姿を見て、キキキという笑い声のようなものをあげて飛び跳ねた。キキキ、キキキ。両手の爪を振り回しながら跳ねる悪夢から逃れようとする僕は何かにぶつかる。


 ごん。後頭部が固いものと衝突して眩暈をおこす。建物の壁にぶつかったのだった。僕の身長よりもたかい壁が背後にそびえ退路を断つ。前を見ると怪物は3体に増えていた。ニタリニタリと笑い奇声を発するそいつらを見て気が狂わんばかりになる。


 その時、不意に自分の手にしていたノートパソコンのキーボードとモニターの隙間から赤とオレンジの光が漏れていることに気が付いた。衝撃で電源が入ったのだろうか。そんな場違いなことを考えていると昼間出会った切れ長の目を思い出す。藁にもすがる思いで、僕はノートパソコンを開いた。


 キーボードの上に赤とオレンジ色の2つの多面体が浮かび上がる。くるくると回転しながら明るい光を放っていた。3Dホログラフ? まだ完全には実用化されていないはずのテクノロジーが目の間に展開されていた。多面体の表面には0から9までの文字が白く眩い光を放っている。


 あまりに実体感があり思わず手を伸ばす。僕の指先が触れたと思うと赤い多面体は激しく回りながらすっと離れて地面に落ちる。僕がしまったと手を動かすと、オレンジ色の多面体にも触れてしまったようだ。同様に激しく回転しながらこちらも地面に落ちた。


 今まで多面体に気を取られて気づかなかったがパソコンのモニターには見慣れた画面が映っている。僕が作品を投稿している小説サイトのウェブページ。しかも、僕のIDとパスワードを使わないと入れないはずの画面だった。僕の大切な小説たちのタイトルが並ぶ。愛しい僕の子供達。


 嫌だ。死にたくない。先ほどまでとは異なり、僕に死を強要しようとする怪物たちへの怒りが湧きあがってきた。僕はまだまだ話を書きたい。最後まで書ききりたいんだ。そう強く願う。こんなところで死んでたまるか。ノートパソコンを小脇に抱えながら、僕が必死に起き上がると強い光が溢れた。


 赤い光に包まれた数字の2とオレンジ色をまとった8の数字。二つがくっつき溶けあって大きなバーミリオンの光球が出来上がり、大きく膨れ上がって周囲を明るく照らし出す。あまりの眩しさに僕は目を閉じた。寸前、怪物たちも顔を覆っている姿がチラリと見える。


 光が消えると僕の目の前に巨大な影が立ちはだかっていた。まるでマウンテンゴリラのような巨体。筋骨隆々。腕も胸も脚もすべてが太く逞しい。先ほどの子供のような化物でさえ持て余していたのに、こんな相手では僕ではどうしようもない。先ほどの怒りが急速に冷めて恐怖が体を支配した。


 僕が歯をガチガチさせていると巨体は首をコキコキと横に振る。よく見ると僕に背を向けているのだった。

「さて。俺の創造主さんよ。そう簡単にあきらめるもんじゃないぜ」

 笑いを含んだ低い声。力強さを合わせ持つ男らしい声音だった。


「ふーん。鉤爪使いか。まあ、俺の相手をするには力不足だろうぜ」

 巨漢は上半身をかがめると左右に素早いステップを踏み始める。ぱっと横に飛んだと思うと怪物の1体に強烈な蹴りを放っていた。ターンタンと軽快なステップを踏みながら、振り下ろされてきた爪の下を掻い潜る。


 同時に逆立ちしたかと思うと後ろ向きのまま別の怪物の顔に両足がめり込んでいた。そのまま1回転すると残りの1体の周りをダンスをするように回り始め、低い回し蹴りを放って転ばせると飛び上がって踵で頭を踏みつぶす。巨漢は周囲を確認すると俺の側まで戻ってくる。


「あ、ありがとうございます」

「いやあ、礼には及ばねえよ」

「そんなわけにはいきません。命の恩人です」

 男は人好きのする笑顔を見せた。


「それを言ったら、あんたは俺達に命を与えてくれたんだしなあ」

「俺達?」

「おっと。そろそろ戻らないと。彼女にとびっきりのコーヒーをご馳走しなくちゃいけないからね」

「コーヒー? 彼女?」


 巨漢は笑う。

「ああ。そうさ。なんだ。もう忘れちまったか。まあいいさ。それじゃあな」

 その瞬間、風船がしぼむようにして巨漢は僕の前から消え失せる。気が付くと血のような色の月は消え、周囲に喧騒が戻ってきた。


 行きかう車の音、遠くの緊急車両のサイレン、新商品の発売を告げるコンビニエンスストアの宣伝文句。そして、先ほどまでいた怪物たちの姿も掻き消えていた。呆然と立ち尽くす僕の側を人々が忙しそうに通り過ぎていく。幾人かは僕の顔を不審そうに眺めていた。


 震える足で僕は自宅兼店舗へと歩き出す。さっぱり状況が分からなかった。鉤爪を持った怪物も僕を助けてくれた巨漢も消えてしまい、先ほどまでのことが現実だったのか分からない。はっとして頬にふれるが痛みも何もなかった。なんとか家にたどり着き、震える手で鍵を開け中に入る。ドアにもたれて放心していると家のベルが鳴った。

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